2021年6月8日
此花千鳥亭で開催された『第八回連続講談千鳥亭 7日目』をオンライン視聴。
今回は『赤穂義士伝』がテーマ。
↑の写真は、泉岳寺・前原伊助宗房のお墓です。
演目
旭堂南舟 鈴木重八(四)
旭堂南龍 前原伊助(七・大団円)
旭堂小南陵 大石内蔵助(七)『大石山鹿護送』
南舟さん・鈴木重八(四)
浅野内匠頭の前年。
吉良上野介の勅使饗応役を務めたのが、岸和田藩岡部家4代藩主岡部長泰。
吉良に嫌がらせを受け、やり返した出来事が講談になってとのこと。
長泰は『岸和田だんじり祭』の起源となる稲荷祭を行った事で有名です。
鈴木重八の妻『おはな』
江戸詰めが終わり、重八が国表に帰っている間に、松の廊下刃傷事件が起こる。
お花は堀部安兵衛に相談しようとしたが、既に赤穂へ出立し不在。
赤穂のお家断絶の話も聞こえてきたが、重八からの手紙はない。
そうこうしている間に、母は亡くなり、貯えも尽きてきた。
ついには家を引き払い部屋を間借りする事に。
その後、赤穂浪士の討ち入り。
話を聞いたお花は、重八を探すが姿はなかった。
落胆するお花に、家主は商人の妻になることを提案したが断る。
最近は家に帰って来ていない家主。
ある夜、何者かがお花を訪ねてくる…
南龍さん・前原伊助(七・大団円)
かつて自分が斃した者の子息に介錯される。
前原伊助宗房、見事な最期でした。
佐々木琢磨他門人に囲まれた、千馬三郎兵衛と富森助右衛門。
そこに、倒れていた前原伊助が出てきた。
「佐々木琢磨と尋常の勝負を願いたい。今度こそ真槍を用いて立ち合いを望む!」
「半死半生の人間に負けない」と踏んだ佐々木琢磨は立ち合いを承諾。
じりじりと間合いを詰めて衝突。
『一上一下打打発止。一進一退五分と五分、誠に優劣つけがたし』
鬼のような気迫に押された佐々木が怯んだ胸に、伊助の真槍が突き刺さる。
佐々木は血煙上げて絶命した。
しかし、力を使い果たした伊助はここで倒れる。
主人は倒れてしまったが、門弟が千馬と富森に迫る。
時を同じくして事情を聞いた、松浦家家老・金左衛門重時が提灯を持って急行。
何とか止める事に成功した。
話しを聞いた金左衛門は、水面下で事を収めようとする。
佐々木を倒した伊助は、皆が見る前で正々堂々立ち合いをしたという事でお咎めなし。
江戸では、浅野内匠頭と松浦隠岐守ともに謝罪をしたため一件落着。
事後処理として佐々木家は断絶なとった。
長矩からお褒めの言葉を頂戴した伊助だったが、出奔しようとする。
が、浅野の門人でありながら、品川に槍術指南の道場を開くという扱いで決着。
いざ道場を開こうとした時、16歳になろうという若々しい男の子がやってきた。
この子供は『佐々木格之助』という佐々木琢磨の子息だった。
格之助は、父の仇『斎藤新次郎』を倒すため槍の稽古をつけてもらいたいと言う。
伊助は因果を感じ、自分の虎の巻をすべて授ける事にする。
数年後、格之助は免許皆伝の腕前に。
いよいよ自分が討たれる決意をしたところ、刃傷事件が起こる。
仇討ち本懐を遂げようとするため、伊助は道場を畳もうとするが、格之助が道場を守ると言ったため任せる事にした。
元禄15年12月14日。赤穂の面々は仇討ち本懐。
翌年伊助は切腹する事が決まる。
その際、「介錯をするものを読んでもらいたい」
佐々木格之助に今までのいきさつを書き、手紙を佐々木格之助に。
元禄16年2月14日。
死に装束を着た伊助の元に格之助がやってきた。
伊助は、「許せ…」と言い介錯を受けるのだった。
前原伊助宗房 享年40歳
小南陵さん・大石内蔵助(七)
山鹿素行(甚五左衛門)は山鹿流兵法・古学の学者。
その思想は吉田松陰まで繋がり、明治維新の源流となりました。
山鹿流といえば、『一打ち二打ち三流れ』の陣太鼓が思い浮かびます。
が、これは物語の創作で史実には存在しないそうです。
山鹿は朱子学を批判し、赤穂藩に蟄居・閉門になる。
大石内蔵助を始めとする移送部隊が箱根の権現坂に掛かったところ、山鹿の門弟に囲まれた。
部隊は駆け出したが、河原で追いつかれる。山鹿の門弟は200名。
「山鹿先生をお返しいただきたい」
門弟はこのように言うが、「力づくで奪おうとするのなら、大石内蔵助の一存により山鹿先生を手にかけ、自らも腹を掻っ捌いて果てねばらなぬ」と、突っぱねる。
内蔵助は、言葉を交わすのは構わんと言う。
門弟は内蔵助が手を離した隙に、山鹿を奪い逃げようと企てた。
しかし、山鹿は内蔵助の真意を見抜き門弟を一喝。
「お主たちは短慮過ぎる。ここで連れて行かれたら、自分が天下の大罪人として生涯を終えてしまうかもしれぬ。我は赤穂にお預かりいただき、ご公儀のお裁きがあるまで赤穂に滞在するだけだ」
再び門弟と合える日を心待ちにし、内蔵助と赤穂へ向かう山鹿であった。
無事赤穂へ到着した一行。
大役を果たした内蔵助を、『昼行燈』と陰口をたたいていた重臣たちもこれで考えを改める。
内蔵助は山鹿より軍学の講義を受け、三年後『大星伝』を授けられ立派な軍学者になるのであった。
※『大星由良之助』の名称はこの『大星伝』が由来。
その後、ご公儀から許しが出た山鹿は故郷へ帰り、更に門弟を増やしたと言われている。
養父・大石頼母が老齢で隠居したため、内蔵助が城代家老になる事になった。
石束家から『りく』を迎え、三人の子宝にも恵まれた。
浅野家君主も、長友から長矩へ。
内蔵助三十半ばを過ぎた頃、備中・松山城主の水谷勝美(みずのやかつよし)が殿中で刃傷事件を起こし改易。
松山城の受け渡し・管理を内蔵助がすることになる…
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