2021年6月16日
此花千鳥亭で開催された『第八回連続講談千鳥亭 15日目』をオンライン視聴。
今回は『赤穂義士伝』がテーマ。いよいよ最終日・大団円です。
↑の写真は、両国・本所松坂町公園にある、『大石内蔵助以下三十六名署名義士新類書』です。
演目
旭堂南龍 潮田又之丞(八・大団円)
旭堂小南陵 神崎与五郎(二)
旭堂南舟 寺井玄渓(三)
南龍さん・潮田又之丞(八)
上田昇雲が吉助の母・うめの看病をしていたところ、父・茂右衛門と吉助が浅野長友と堀部弥兵衛を連れてやってきた。長友は昇雲の話が聞きたいと、城へ招待する事にする。
三人が赤穂の城へ帰る途上、荒川村の不動堂に差し掛かった。
その不動堂では、潮田主水が沼澤次郎左衛門の門下生三名と果し合いをしようとしている。
「本来仇討ちは天下の法度であるが、わけがわけである。我が見届けよう」
双方から事情を聞いた長友は、このように言い果し合いを了承。
主水は、あっという間に三名を斬り捨てる。
主水の腕前を見た浅野家は是非とも召し抱えたいため、赤穂の城にて逗留させた。
そのうちに、近松勘六の妹『ふみ』と結ばれ子供が産まれる。
同時期に長友にも子供が産まれた。名前は又四郎(後の長矩)
そこで長友は、主水の子供に又四郎の『又』の字を与える。
主水はここまでの世話になった上田正之丞の『之丞』と合わせ、名前を『潮田又之丞』にするのであった。
小南陵さん・神崎与五郎(二)
知っていれば、今後、より人生が明るくなる講談。
脳裏に描かれた映像は一生ものの宝物ですね。
赤穂藩郡奉行・神崎与左衛門の子供『与太郎』は傍若無人の数々で、周りを困らせていた。
ある日、釣りのいさかいで現地の子供に脇差を振り回したところ、石につまずき転んで自分の腹に刺さってしまった。
脇差を抜いたところ、鮮血が広がる。
与太郎は苦しみに悶えていたが、子供は善意で脇差を首に打ち付け止めを刺した。
子供が名主の処へ走り込み、一部始終を話すと大人たちは真っ青。
遺憾ながら、縄で縛られ奉行の下に連れて行かれる。
一方、奉行・神崎与左衛門の方でも与太郎の死を把握。すぐさまお白州が開かれることに。
お白州の場では、名主を始め大人たちが必死に子供をかばう。
しかし、事情を聞いた奉行は首を跳ねると決裁した。
一同と別れ、庭へ連れて行かれる子供。奉行自ら首を…跳ねなかった。
ーそなたには迷惑をかけた。今日、わしの倅である与太郎が、子供を無礼打ちにしてしまった。今日からそなたが与太郎じゃ。
与太郎改め神崎与五郎は、「自分があの時に堪えていたなら、意見をせずにいたのなら、若君が死なずに済んだのかもしれない。悲しそうな奥方様とお奉行様、こんな悲しそうな顔を見ずにすんだのかもしれない」これを生涯背負って生きていくこととなる。
「堪忍のなる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍」
このお話が、後の『神崎の詫び証文』へ繋がっていく…
南舟さん・寺井玄渓(三)
赤穂藩・浅野家に仕えることになった寺井玄渓。
だが、半年も経たないうちに長矩の松の廊下刃傷事件が起こる。小野寺十内より仔細を聞いた玄渓は、倅の玄達を京都に残し赤穂へ向かった。
ー奉公したのは近々なれど、お禄を頂いたご恩は変わりございません。ご城代大石殿の意見に従い、殉死なら殉死・籠城なら籠城。いずれのお指図も受ける所存にございます。
城代家老・大石内蔵助とは初対面だった玄渓はこのように言い、行動を共にする事になる。
山科で潜伏の日々を終え、仇討ちをしに江戸へ下向する事になった内蔵助。
玄渓も仇討ちを希望したが却下されたが、『討ち入りの人数の他』という事で、玄達を浪士に同行させた。玄渓はこの時、「大石はまだ京都にいる」と吹聴し、吉良の間者を足止めすることに成功。
元禄15年12月14日。
吉良家襲撃直前、内蔵助は玄達を呼び形見の印籠を渡して討ち入りへ。
その後、京都へ帰った玄達から一部始終を聞いた玄渓はは大いに喜んだという。
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