2023年2月12日
台東区~荒川区周辺を歩いてきました。
今回は、隅田川沿いにある石浜神社へ伺います。
石濱神社(石浜城址)

御由緒
石浜神社
聖武天皇の神亀元年(724)九月十一日勅願により鎮座。文治五年(1189)源頼朝の奥州藤原氏攻めに際しての社殿の寄進、弘安四年(1281)蒙古襲来の折には必勝を祈願しての鎌倉将軍家お取次ぎによる官幣の奉幣などを経て、中世初めには大社として発展する。殊に、千葉氏、宇都宮氏など関東武将の信頼は篤く、関八州より多くの参詣者を集めたと伝えられる。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名称に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌「江戸名所図会」などにも大きく収められるところとなり、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せ、明治五年には社格が郷社に列せられた。
拝受資料より
境内の写真
参道



石浜神社鳥居(荒川区指定有形文化財・建造物)
寛延二年(1749)八月哉生明(陰暦三日)の建立。主石材は花崗岩。建立者は石浜在住と推定される水杢墾則祐。銘の撰者は儒者の鳴鳳卿(成島錦江)。石工は小出氏。橋場町名主を含む商人等五十七人が寄進した。笠木の小口がカマボコ型で、柱の傾斜が大きいという特徴を持ち、同形式の安永八年(1779)銘の一の鳥居等とともに神明鳥居系の石浜鳥居と呼ばれる。江戸の歴史、文化、信仰を知る上で、また鳥居研究において大変貴重である
現地案内板より
神輿蔵・手水舎


拝殿





綺麗な御社殿ですね。
摂社・末社



江戸神社(素戔嗚尊)
天文年間(1532~1554)に鎮座。江戸太郎重長が謹んでおまつりをしていた牛頭天王社。橋場の鎮守様で、祭礼は汐入の押合祭と呼ばれた。
麁香神社(手置帆負命・彦狭知命)
大工の祖神、工匠守護の神として安永三年(1774)に鎮座。類例少なく江戸後期より建築関係者の信仰と人気を呼ぶ。
真先稲荷神社(豊受姫神)
後鳥羽天皇の時に千葉介兼胤が家伝の神璽を身に付けて戦い、真っ先に数々の武功を得、その子季胤が宇迦之御魂の神像を鋳造しこれを持って戦に臨んだという。その後天文年間に石浜城主となった子孫守胤が一族一党の隆昌を祈って社殿を築き、家伝の神璽を奉斎し尊崇をより篤くした。江戸中期には一橋家の祈願所となり反映し、境内の田楽茶屋も評判となり名勝としても名を馳せ広重の浮世絵などにも数多く描かれている。関東大震災後の都市計画にともない大正十五年には石浜神社へ遷座される。
招来稲荷神社(豊受姫神)
真先稲荷神社の奥宮としてまつられた。
北野神社(菅原道真公)
明和四年(1767)菅原道真公の末孫二七代目の高辻大納言家長が所持していた管神の像(日本三体の一つ)を勧請。東都の北に位置するため北野天満宮と呼ばれた。吉原の代表的な年中行事である「吉原俄」は、当社勧請の際に行われた梅祭りの附祭がもとといわれる。
その他の写真


御朱印

手書きを拝受しました。
初穂料500円。
石浜城址公園


石浜城址
石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573~1591)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条家滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
現地案内板より
アクセス
住所:東京都荒川区南千住3丁目28−58
東京メトロ日比谷線・JR常磐線 南千住駅より徒歩10分
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