2022年10月2日
埼玉県深谷市を自転車で走っています。
今回が最終回となります。
尾高惇忠生家

尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は、天保元年(1830)下手計(しもてばか)村に生まれ、通称は新五郎、藍香(らんこう)と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代から藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。”藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一(ちこうごういつ)の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。
惇忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊王攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代上長や第一国立銀行仙台支店長を務めた事でもよく知られています。この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と呼称されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。主屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年ごろ建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。
現地案内板より
建物の写真
外観



3枚目は煉瓦倉庫です。
こちらは中に入れませんでした。
内部





家族の写真と家系図



アクセス
住所:埼玉県深谷市下手計236
JR深谷駅よりバス『渋沢栄一記念館』より徒歩10分程度
誠之堂

誠之堂は、大正5年(1916)渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して第一銀行行員たちの出資により建築された。
渋沢栄一は現在の深谷市に生まれ、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ日本の近代経済社会の基礎を築いたが、その拠点としたのが第一国立銀行であり、明治29年に同行が第一銀行になってからはその初代頭取を務めた。栄一は喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任したが、誠之堂の建築には栄一が同行の行員たちから深く敬愛されていたことが伺われる。
「誠之堂」の命名は、栄一自身によるもので、儒教の代表的な経典に一つ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだものである。
設計者は当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉。誠之堂の設計にあたっては、条件とされた「西洋風の田舎屋」で「建坪は30坪前後」を守りつつ、独自の発想を凝縮してこの建物を造り上げた。建築面積112㎡、煉瓦造平屋建、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それがバランスよくまとめられている。
配布のパンフレットより
平成15年5月30日、国の重要文化財に指定。
建物の写真
外観






内部
大広間と次の間




渋沢栄一の肖像レリーフと、愛読書『論語』



天井・彫刻・ハーフティンバー



ステンドグラス




清風亭

清風堂は、大正15年(1926)、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂と並べて建てられた。建築資金は誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものである。
佐々木は28歳の若さで第一国立銀行本店支配人就任をはじめとして、同行の数々の役員を歴任し、大正5年、栄一を継いで第一銀行第2代頭取に就任した。勤勉精励、謹厳方正な性格で知られ、終始栄一を補佐した。栄一の精力的な活動も佐々木の手腕と人格によるところが大きかったと考えられる。清風亭といえば、当書、佐々木の屋号をとって「茗香記念館」等と称されたが、後に「清風亭」と呼ばれるようになった。
設計者は銀行建築の第一人者の西村好時。建築面積168㎡で。鉄筋コンクリート造平屋建て、外壁は人造石搔落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけている。屋根のスパニッシュ瓦、ベランダのアーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られている。
大正12年の関東大震災を契機に、建築構造は、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に主流が代わったが、その初期の建築物としても建築史上貴重なものである。
配布のパンフレットより
平成16年3月23日、埼玉県指定有形文化財に指定。
建物の写真
外観




内部







アクセス
住所:埼玉県深谷市起会84−1
JR深谷駅からシャトルバス『誠之堂清風亭』下車
おまけ
締めくくりにご当地の郷土料理『煮ぼうとう』をいただきました。
渋沢栄一も愛した料理で、山梨のほうとうと違いしょうゆ味がベース。
あっさりしていて、とても美味しかったです!


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