2021年4月18日
銀座から神社を求めて、霊岸島・築地までを歩いてきました。
銀座~新富町

幸稲荷神社です。
銀座のビルの路地裏に、ひっそりたたずんでます。

安平神社です。
銀座と築地の境目にあります。
こちらもビルの谷間にある趣のある境内です。

こちらが拝殿でしょうか。
宝珠とカギを抱える狛狐がいました。

こちらは、日比谷稲荷神社です。
JR八丁堀駅の近所で、現在の町名は「八丁堀」ですが、旧町名が「日比谷」だったことから、この名前になったそうです。

鐵砲洲稲荷神社

鐵砲洲稲荷神社です。
1945年の空襲でも消失を免れたとの事。
御由緒
鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。
それよりさかのぼる841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものです。
その後、埋立てが進み現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称しました。室町時代の末期のことであります。
徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです。
江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお『冬至開運祈願祭』に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されています。
鐵砲洲稲荷神社ホームページより
境内の写真

手水舎です。
当社の中川正光宮司による「戒め」の文が掲示されてます。
深いですね。

こちらが拝殿です。
写真は撮りませんでしたが、この後結婚式が行われてました。

拝殿の手前に、二宮尊徳像がありました。
神楽殿です。
趣のある建物ですね。
実際に公演しているところを見てみたいなあ。

境内社の八幡神社です。

扁額が5枚掲げられており、左から
①天満社・恵比壽社・大國社
②浅間社・三輪社・御嶽社・小御嶽社・鹿島社・粟島社・香取社
③八幡神社・豊玉稲荷社・五社稲荷社
④琴平神社・宮比社・大鳥社、
⑤住吉社・水神社・熊野社・春日社・船玉社・厳嶋社と記載されているそうです。

この力石は、安山岩で出来ているそうです。

境内を右奥に行くと、「富士塚」と呼ばれる富士山の溶岩で覆われている丘があります。
頂上は富士浅間神社で、そこに続く登山道と下山道がついており、32基の石碑が埋め込まれているそうです。
頂上に登る事はできませんが、周囲を一周する事ができました。


御朱印の初穂料は300円。
直書きして頂きました。
JR京葉線・東京メトロ日比谷線「八丁堀」駅 徒歩5分
東京メトロ有楽町線「新富町」駅 徒歩10分
詳細→鐵砲洲稲荷神社ホームページ
霊岸島

橋を渡り、霊岸(巌)島へ。
寛永1年(1624年)霊巌雄誉上人がこの地に創建した「霊巌寺」に由来してます。
江戸落語・宮戸川で、締め出しを食らった半七とお花が向かう「飲み込んだのおじさん」が住んでいる場所です。

新川金刀比羅神社です。

新川大神宮。
「大神宮」とありますが、無人の神社です。

ご由緒。
酒問屋の守護神として崇敬を集めてきました。

鳥居を入って左側に、たくさんの酒樽が!
於岩稲荷田宮神社

於岩(おいわ)稲荷田宮神社。
「東海道四谷怪談」の主人公・お岩の伝承を持つ神社です。
四谷にも同名の神社が存在ますが、歴史的背景からこちらが本家という説もあるようです。
(実際には同格の分社扱い)
御由緒
於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、文政八年(1825)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。
境内の本殿横にある石造の鳥居は明治三十年(1897)一月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では二番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。
鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念、四代目市川右団次」と刻しており、市川右団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。
鳥居・百度石は共に中央区民有形文化財に登録されています。
下記、中央区教育委員会の立て看板より

境内の写真

こちらが拝殿です。

左下の説明書きに、「御朱印は鐡砲洲稲荷神社にて」という説明が(;’∀’)
来た道を戻る事となりました…アシイタイ

拝殿右手奥にある、四代目市川左団次が奉納したとされる「百度石」です。
百度石右手にある、「お岩稲荷覆屋」です。

鐡砲洲稲荷神社へ戻り、御朱印を頂きました。
初穂料は300円。大きさの関係でこちらは書置きでした。
東京メトロ日比谷線「八丁堀駅」 徒歩10分
詳細→東京神社庁ホームページ
築地・波除神社

波除神社(波除稲荷神社)です。
旧築地市場、東側出てすぐの場所にあります。
御由緒
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。
それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。
波除神社ホームページより
境内の写真

本殿です。
昭和12年(1937年)に造られており、戦火を潜り抜けてます。

御神木である、「枝垂れ銀杏」です。
境内社である、弁財天社です。
「お歯黒獅子」は高さ2.2mもあります。
元々市場が側にあったので、供養塚が建立されてます。
すし塚・海老塚・玉子塚・鮟鱇(あんこう)塚・活魚塚・昆布塚

末社。
天照大神・大国主命・少彦名命・天日鷲命の四神が祀られてます。

獅子殿。
この反対側にお歯黒獅子があるので、迫力があります。
七福殿です。
吉野家の碑です。
吉野家は築地市場内に一号店がありました。
市場が豊洲移転により閉店となりましたが、創業地が築地市場内にあった「感謝の思い」を後世へ残すため、平成28年(2016年)8月31日に建立されました。

御朱印の初穂料は500円。
初春の時期という事で限定ものもありました。
ただ、書置きになるようなので、直書きの通常版をお願いしました。
東京メトロ日比谷線「築地駅」 徒歩7分
都営大江戸線「築地市場駅」 徒歩5分
詳細→波除神社ホームページ
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