生田緑地周辺を歩く①~鎌倉幕府の防衛・武蔵侵攻への橋頭堡、枡形城

2022年2月5日
神奈川県川崎市多摩区、『生田緑地』周辺を歩いてきました。
こちらは前編、枡形山・枡形城周辺をまわってます。

標題の写真は、同じ生田緑地内にある岡本太郎美術館内・太陽の塔です。
後編はこちら↓

枡形山

 小田急線向ケ丘遊園駅の西南約800mの丘陵地に枡形(ますがた)山があります。山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような断崖で囲まれた要害の地をなしています。おそらく枡形山という地名は、こうした地形が枡の形に似ていることから名付けられたのでしょう。

 枡形山は枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここが城であったことが文献からもうかがえます。

川崎市教育委員会ホームページより

山道の写真

山道は整備されており、比較的楽に登ることができます。

反対側からの山道。
こちらの方が急勾配です。
登山前に広福寺へ寄った関係で、筆者はこちらから昇りました。

枡形城址

 平安時代、現在の川崎市中部あたりには稲毛荘という荘園があり、稲毛三郎重成はこの荘園を中心に川崎市北部から中部を支配領としていました。桝形城は、鎌倉時代初期に稲毛荘の荘司である稲毛三郎の居城として伝えられている山城です。

 多摩丘陵には西から小沢城おざわじょう、枡形城、作延城さくのべじょう井田城いだじょう加瀬城かせじょうなどの多くの山城が、鎌倉の防衛線として作られていました。
 枡形城は多摩川を堀と見立て、廣福寺こうふくじを居と定め、枡形山の山頂を詰めの城としたと伝えられています。

 (中略)稲毛三郎は平安時代末期から鎌倉時代初期に源頼朝の重臣として活躍した武将で、北条政子の妹を妻としました。武蔵の国の豪族で、小山田有重おやまだありしげの子であり、秩父氏の一族でした。

 源頼朝亡き後、源氏やその重臣たちは、北条氏の陰謀により滅ぼされ、稲毛三郎も悲劇の最後をとげたと伝えられています。

 枡形城は稲毛氏が亡びたあとも、江戸時代の一国一城制度によって廃城になるまで、戦場の拠点として使われ、北条早雲(伊勢宗瑞)や今川氏親など、戦国時代の幕開けに大きくかかわる人物もこの城を利用しました(立河原の戦い)

展望台掲示板より 一部加筆

『立河原の戦い』については、下記の動画が参考になると思います。
YUKIMURA CHANNELさんより)

城址(枡形山広場)の写真

城址は整備されており、公園になってます。

枡形城址の碑・伊藤葦天の句

伊藤葦天の句は、「馬場あとも やかたあとも 秋の風」と刻まれています。

展望台

展望台です(笑)
当時の天守もこれくらいの高さだったのでしょうか。

展望台からの眺めはこんな感じです。
スカイツリーと東京タワーが見られました。

晴れてる日は富士山も見えますが、当日は曇っていたため観られなかったのが心残りです。

枡形山・桝形城址

小田急小田原線 向ヶ丘遊園駅から徒歩15分

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