板橋区を走る②~東京大仏と植村直己さん

2022年6月11日
地元・板橋区を自転車で走ってきました。
前回の続きです。

赤塚山 乗蓮寺(東京大仏)

沿革

 天正十九年(1591)に徳川家康から十石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保三年(1743)に将軍吉宗が鷹狩の際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家鷹狩りの小休所や御膳所となりました。

 高速道路の建設にともなう国道十七号線の拡幅工事により、昭和四十七年から七年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。

 境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。

現地案内板より抜粋

境内の写真

閻魔堂

山門

多聞天尊像・広目天尊像

福寿観音

七福神像・鐘楼

手水舎

本堂

天保飢饉の供養塔

 天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。天保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。

 幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる者はあとを絶ちませんでした。

 この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀佛」の名号が、また台座には同八年三月から十一月の間に亡くなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。

 昭和六十一年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。

現地案内板より

東京大仏

 この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正譽降道しょうよりゅうどうが、昭和四十九年八十八歳にて発願、完成まで約三年の歳月と延べ三千五百人の手によって昭和五十二年四月完成をみました。

 千葉氏の居城であったここ赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁のれをとむらい、世界の平和と万民の救済の願いがこめられております。

現地案内板より

赤塚城二の丸跡

植村直己さんのお墓

植村直己さんは兵庫県出身の冒険家で、生前は板橋区仲宿を拠点にしていました。
世界初の五大陸最高峰登頂者・犬ぞり単独行で世界初の北極点到達など、輝かしい実績を誇りましたが、1984年当期のマッキンリーに単独登頂中に行方不明となりました。

同年、国民栄誉賞が贈られています。

御朱印

現在は書置き対応のみです。
祈祷料300円

アクセス

赤塚山 乗蓮寺(東京大仏)

東武東上線 下赤塚駅より徒歩25分
都営三田線 西高島平駅より徒歩20分

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