2023年5月3日
板橋区立郷土資料館に伺ったので
近所にある赤塚城址にも行ってきました。
赤塚城址/赤塚城址公園

北に荒川を、東に鎌倉街道を押さえる。
西高島平駅から住宅街を南へ徒歩15分。首都高速の向こうに見えてくる丘陵上に、赤塚常はあった。かつて城の水堀の役割だった湧水は、今もため池が面影を伝え、区民が憩う赤塚城址公園の中心となっている。
武蔵野台地の北東端に築かれた赤塚城は、北に荒川を望み、東に鎌倉街道を押さえていた。築城時期は不明だが、豊島氏の一族赤塚氏の居城だったという。
その後、享徳の乱で下総(現、千葉県北部、茨城県の一部)を追われた千葉実胤一族が扇谷上杉氏を頼った際、与えられた城の一つが赤塚城だった。
千葉氏は太田道灌に加勢し、豊島氏との戦いで活躍するが、のちに小田原北条氏に仕え、小田原攻めで北条氏が滅んだ際に赤塚城も廃城となっている。
城は本丸、二の丸、三の丸(一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪)からなり、随所に堀跡などを見ることができる。付近の乗蓮寺は外曲輪跡とされ、また赤塚公園の沖山の塁も、城と関連する施設の可能性がある。
板橋区立郷土資料館にていただいた資料より
MAP

城址の写真
本丸跡






赤塚城跡と徳丸ヶ原
赤塚城跡は、区立赤塚溜池公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。
ここは康正二年(1456)に下総国市川を逃れた千葉自胤が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来ます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。
城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ヶ原とよばれた原野でした。ここで天保十二年(1841)、長崎町年寄りで西洋砲術家の高島秋帆が、江戸幕府から許可を得て洋式の砲術訓練を行い、「高島平」の地名の由来となりました。明治時代以降は開墾されて一面の水田地帯となり、「徳丸田んぼ」と呼ばれました。昭和四〇年代になると高島平団地の開発が始まり、景観は大きく変わりましたが、区立徳丸ヶ原公園に残る「徳丸原遺跡碑」(区登録有形文化財)が、高島平の歴史を伝えています。
令和二年十二月 板橋区教育委員会
千葉自胤をはじめとする武蔵千葉氏の菩提寺は、近所にある松月院にあります。
また、高島秋帆が徳丸ヶ原にて西洋式砲術訓練をした際は、松月院を本陣にしています。
堀切跡



二の丸跡(城址の梅林)



城址の梅林
梅は春を告げる花です。
ここ城址の梅林は梅畑であったものを農家から譲りうけ、平成七年六月から公園地として皆さんに親しんでいただいております。
白加賀(シラカカ)バラ科 サクラ属
花期は二月下旬~三月上旬
中国が原産の梅は花を見るだけでなく、果実も採れる実利の植物でもあります。
毎年、公園管理所では梅の実を地元の養護学校の生徒さんたちに摘んでもらい、その一部を近隣の福祉施設にもさしあげたいと考えています。
毎年、子供達が楽しみにしていますので梅の実には触れないよう、皆様のご協力をお願い致します。
梅一輪一輪ほどのあたたかさ 嵐雪
平成十一年五月 都立赤塚公園管理所
自然谷の堀(空堀?)




土塁?


赤塚溜池公園





アクセス
住所:〒175-0092 東京都板橋区赤塚5丁目35−25
都営三田線 新高島平駅より徒歩15分
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