三崎港より城ヶ島へ渡りました。
今回の三浦市シリーズ最終回です。
城ヶ島へは、船で渡りました。
動画に撮りましたので、こちらもどうぞ。
※風の音が強いので、音量にご注意ください。
城ヶ島(城ヶ島公園)

概要
風光明媚な三浦半島の情景を凝縮したような景観で知られる、鎌倉時代以来の景勝地である。漁業、軍事、交通、文学に深く関わってきた多面的な歴史を持っており、大正時代に北原白秋の『城ヶ島の雨』が評判を呼ぶと、ロマンの島として全国に名を知られるようになった。
大正末期から太平洋戦争終戦までは東京湾要塞の一部として砲台が存在したが、戦後は「城ヶ島公園」として開放された。現在は磯釣、磯遊びに適する行楽地として知られる他、三崎と共に海を囲み、遠洋漁業基地三崎漁港の一角を成す。
三崎との距離が約500mと近いため、歴史的にも三浦三崎の一部と言える存在である。かつては三崎仲崎岸壁より出ていた渡し舟が唯一の渡島手段であったが、1960年に城ヶ島大橋が開通すると三崎との一体化は一層進行した。
wikipediaより
MAP

今回は、地図右下の『灯台側発着場』より上陸。
反時計回りで歩いてます。
現地の写真
灘ヶ崎~長津呂湾~城ヶ島灯台







揖の三郡山







城ヶ島灯台~馬の背洞門の道中



馬の背洞門



これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけてはろう、風雨等に浸食されてこのような見事な形となったものです。
地層は第三紀層、鮮新統、三浦層群に属し土質は凝灰失砂礫岩という柔らかい岩室です。高さ八メートル、横六メートル、厚さ二メートルで、土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」、「眼鏡の洞門」などと呼んでいます。
そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けたものです。明治の文豪、大町桂月はここい訪れて次のように述べています。「ー馬の背に至る、怒涛脚下の巌を噛む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長厳に突出す。云々」
現地案内板より

この道はどこへ続いていたのだろうか…
ウミウ展望台


三崎城ヶ島は鵜の島鳥よ
潮のしぶきで鵜が育つ展望台より望む、赤羽根海岸東側の崖には、毎年十月下旬になると、ウミウ、ヒメウが遠く千島列島から虎石、翌月の四月まで観る事ができます。
約千羽にも及ぶ鵜の乱舞は、冬の城ヶ島の風物詩であり、白秋もまた野生の瑞々しさに深い関心を寄せ、その足跡が島中にあり、多くの創作活動をみことができます。
城ヶ島の白百合の花大きければ
現地案内板より
仰ぎてぞあらんあそびの舟は
城ヶ島公園















松本たかしの句碑

松虫にささで寝る戸や城ヶ島
たかし秋の夜、松虫が鳴いている。島の漁家は戸締りをしないまま、松虫の鳴く声につつまれて安らかな眠りに入っている。「ささで(鎖さで)」は「門戸をしめないで」の意。
この俳句は、松本たかし昭和十三年(1938)の作。当時この城ヶ島に大橋はなく、三崎との渡し舟が唯一の便であった。更に東京湾防備の要塞地帯で、島へ渡るのには軍の制約があり、殊に夜に渡る人など稀であったことから、初秋の夕べには虫の鳴きこぞる島となった。
たかしは三崎の友の案内で虫を探すことができた。
現地案内板より
島の漁家はいとなみは、素朴そのもの。松虫の鳴く頃は、涼をとるため蚊帳を吊って、雨戸を開けたままで寝ている。このような島の矜情が、たかしの高い詩心よってうたい上げられた。
角川源義の句碑

火の鳥へ一帆目指すよ芋の露
この俳句は、角川源義昭和三十九年の作。城ヶ島より望む伊豆大島への願望である。
帆をいっぱいに追風をはらんだ帆掛舟が大島に向かって走っている情景、芋の露(季語=秋)は、成長した里芋の葉に夜露や雨が溜ってきらきらとかがやいているようす。
現地案内板より
北原白秋詩碑・城ヶ島大橋


『雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる』
『城ヶ島の雨』冒頭の部分が刻まれています。
詳細は三浦市ホームページへ
アクセス
京急久里浜線 三崎口駅よりバスで30分
三崎港より 渡し船3分 ほか
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