2021年12月19日
神奈川県鎌倉市・大船駅周辺を歩いてきました。
今回の目的地は玉縄城跡ですが、周辺の寺院や史跡にも立ち寄ってます。
写真が大量になったので恒例の前後編にて。
玉縄首塚
1526年(大永6)に安房(あわ)里見氏の鎌倉攻めの際に応戦し戦死した、渡内(わたうち)福原氏や大船甘粕(あまかす)氏一族35名を供養した塚といわれています。
この首塚を甘粕塚または、甘粕榎(えのき)ともいいます。後世に六地蔵が祀られ、そのかたわらに由来を記した石碑が立っています。
鎌倉市ホームページより
アクセス
JR各線 大船駅より徒歩5分
聖天山 玉泉寺
「ぎょくせんじ」真言宗の寺院です。
歴史
玉泉寺(真言宗)は、江戸時代に小林若狭という人物が建立した。山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによるという。
本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから、「胎内不動」と呼ばれ、この胎内の像は願行上人が作ったものとされている。
願行は泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた僧(泉涌寺第六世)で、大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造したことで知られている。
鎌倉手帳(寺社散策)より引用
境内の写真
本堂
よくばり地蔵様
誰の願いでも、みんながかなえてあげようと欲張っておられます。
祈願成就をねがうときは
泥のだんごを七つづつお供えして七日間祈願し願いが成就した時は
米の粉のだんごを七つずつ七日間供えてお礼をします。ご霊験あらたかです。
境内・立札より
無縁墓地
当山に葬られ、守る人も無く無縁となられた仏様たちです。
境内・立札より
古い墓石に慶応(北朝)応永の名が刻まれた武将の墓石と想われる、貴重な墓石(仏様)がおられます。
武将のお墓
室町時代の武将二十数名が葬られていると伝えれらています。
境内・立札より
歴代住職ご霊窟
当所にお休みになられているお方は、江戸時代初期九十三才まで天寿を全うされた、三代尊隆和尚様外三名の住職様で今だに当山を守護し、毎日ここから見られておるそうです。
境内・立札より
御朱印
お昼間際にも関わらず、直書きのご対応ありがとうございました!
祈祷料は300円です。
アクセス
JR各線 大船駅から徒歩15分程度
玉縄歴史館
2020年8月1日にオープンした、新しい資料館。
玉縄城に関する歴史資料を中心に展示してます。
入場料200円(旧石井家住宅も併せて見学可能)
展示資料
1階は大手門の模型やジオラマなど、玉縄城に関わる資料が展示されてます。
2階は、地域の民俗資料の展示です。
旧石井家住宅
石井家は後北條時代の地侍から発したと伝えられる旧家で、近世はこの地の名主を務めてきたと云う。この住宅は桁行七間半、梁間五間の規模を持った農家で「四方下家造り」の構造からなり、平面は「ひろま」の奥に「でい」と「へや」が配される「三間取り」である。
「ひろま」の前面にしし窓を付け、「でい」「へや」廻りも土壁塗りで閉鎖的古式が感ぜられ、おそらく江戸中期の初頭を下らない頃(元禄時代)建立であろう。石井家住宅は鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷1575(倉骨)にあったが、近年に至り建物が老朽化し取りこわし建替することを菩提寺である龍寶寺現住職が、これを惜しみ、同寺に寄贈を受けて境内に保存となったものである。
この住宅は神奈川県下に例の多い「三間取り四方下家造り」の農家の典型で、様式手法より見て十七世紀後半のものと推察される。移築後の経過については明らかではいが、構成は生活の便宜から諸々に改造の跡も見られたが、しかし側柱、内部柱等の主要杙のほとんどは当初のまま遺存して今日に至ったものである(後略)
案内板より
内部の写真
茅葺屋根に土の床、囲炉裏に水瓶・薪割りなど、当時の面影が残っています。
アクセス
JR各線 大船駅から徒歩25分
大船駅下車 藤沢行きバスで岡本下車 徒歩3分
(龍寶寺境内)
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