2021年12月19日
神奈川県鎌倉市・大船駅周辺を歩いてきました。
こちらは後編、菩提寺から玉縄城へ向かいます。
陽谷山 龍寶寺
「りゅうほうじ」と読みます。曹洞宗の寺院です。
玉縄三代城主の北条綱成が建立した瑞光院とも言われる香華院がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。
本堂には釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝やの位牌や源実朝の位牌も安置されています。
掲示板より
境内の写真
参道は300メートルほど。
紅葉が少し残っていました。
本堂
玉縄城主の菩提寺というだけあり、隅々まで掃除が行き届いてます。
許可を得て、本堂内部も撮影させていただきました。
新井白石の碑
新井白石は江戸時代の朱子学者。
江戸幕府六代将軍・家宣、七代将軍・家継の時代に幕政を主導しました。
江戸時代、新井白石がこの付近の城廻に家禄を得ると、白石は龍宝寺に200石を献上したと言われています。
玉縄城址まちづくり会議ホームページより
龍宝寺に現存する新井白石の碑は、朱子学者の室鳩巣が碑文を書いたといわれますが、残念ながら現在は読むことができません。近くの玉縄小学校の校歌には白石のことがうたわれています。
玉縄北条氏供養塔
(前略)この供養塔は、龍寶寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍寶寺墓地裏の屋根上に移設しました。
この度、玉縄城築城500年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いつも塔が倒れていて誰かが直すとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。
平成24年(2012)五月吉日
説明板より
御朱印
法要の直前、快くご対応いただきありがとうございました!
祈祷料は300円です。
アクセス
JR各線 大船駅から徒歩25分
大船駅下車 藤沢行きバスで岡本下車 徒歩3分
玉縄城跡
玉縄城は、永正9年(1512)に伊勢宗瑞により築かれました。相模国東部を支配していた三浦同寸(義同)を攻めるため、三浦半島の付け根の位置に築城されたと考えられています。また、武蔵国や房総半島に対する拠点でもありました。宗瑞の子である氏時が初代城主になり、その後為昌(氏綱三男)、綱成、氏繫、氏舜、氏勝と続きます。
玉縄城は、永正15年(1518)に扇谷上杉朝興、大永6年(1526)に里見氏、永禄4年(1561)に長尾景虎(のちの上杉謙信)、同12年に武田氏の攻撃を受けますが、いずれも落城しませんでした。
特に大永6年の里見氏との戦いは激しく、討死した甘粕氏以下35名を供養する「玉縄首塚」が現在も鎌倉市岡本に残っています。
この戦いによって鶴岡八幡宮は焼亡し、氏綱の手で修造事業が進められました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、六代城主氏勝は徳川家康の説得で無血開城し、元和5年(1619)年に廃城となりました。
玉縄歴史館・玉縄城址の案内板より
七曲り虎口
鎌倉街道中之道や江戸湾(現在の東京湾)から攻め上がって来きた敵から玉縄城の中心部を守る武者たちが防御の拠点にした平場でした。
案内板より
武田や上杉あるいは里見や徳川の軍勢も攻め込めなかった玉縄城の堅い守りの一つです。
太鼓櫓址・焔硝蔵址
太鼓櫓址は南側が少し高くなっています。これは七曲り坂(虎口)旧道の切通(堀切の底道)を抑えるための櫓台です。
案内板より
太鼓櫓西側から見下ろすと小規模の平場群が階段状に展開しています。鉄砲の弾薬を貯蔵する「焔硝蔵」の址だと言われています。昔はここに相模陣へ下る小道がありました。相模陣からは大規模な御殿の庭園などが発掘され、そこは玉縄城の「城主の館」であったと考えられています。
大手門跡
本丸東側の土塁『諏訪檀』は、清泉女学院の敷地内にあります。
見学には事前に学校の許可が必要になるようです(土日祝・学校の行事の日は不可)
玉縄城址の石碑
ふわん坂
城宿の中程、「おんまや」の前から左に折れ、九成寺の脇に降りる、S字状に深く切り込まれた急傾斜の坂道が「ふわん坂」です。右側は清水「小路曲輪」から続く尾根、左側は「ふくろもち曲輪」から続く尾根で、両側から防御する構造になっています。
ここは玉縄城本丸から「おんまやぐるわ」「円光寺曲輪」を経由して向い側の円光寺坂、二伝寺曲輪に通じる重要な道筋になっています。
玉縄城址まちづくり会議ホームページより
立札などの表記がないので、マップを持っていないと探しづらいかもしれません。
アクセス
JR各線 大船駅から徒歩20分程度・バス7分
光圓山 久成寺
『くじょうじ』日蓮宗の寺院です。
ふあん坂を下ってすぐの場所にあります。
1520年(永正17年)、足利十一代将軍義澄に仕えた梅田尾張守秀長が宅地を寄進して創建した。
徳川家康が小田原攻めの際に立ち寄って祈祷を頼み、恩賞として三石を与えたといわれ、鷹狩りの折には「葵の紋」入りの弁当箱を授けられたという。
寺には、「鎌倉郡玉縄郷ノ内三石のこと」と書かれた徳川五代将軍綱吉の朱印状が残されている。
鎌倉手帳より
境内の写真
参道には、陸軍大将・大迫尚道揮毫による『忠魂碑』、日蓮の石像があります。
本堂
徳川家にゆかりがあるので、葵の御紋が要所に見られます。
長尾定景一族の墓
長尾定景は、平安末期から鎌倉時代にかけての武将で長尾氏二代当主。
上杉謙信(長尾景虎)の祖先と言われています。
治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した際には平家方として参戦。
『石橋山の戦い』などで抗戦しましたが、後に降伏しています。
建保7年(1219)には、鎌倉幕府三代将軍・源実朝を殺害した公暁討伐の命を受け、三浦義村・北条義時と連携し公暁を討ち取る武功を立てました。
御首題
祈祷料300円で書置きを拝受。
快く対応いただきありがとうございました!
アクセス
JR大船駅よりバス 『久成寺』停留所下車すぐ
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