2021年11月3日
川越市を歩いてきました。こちらは後編です。
↑の銅像は川越市役所前にある、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰(かさい)、太田道灌です。
築城の名人として、江戸城・川越城・高槻城を築きました。
武将としても有能で、30回以上出陣して一度も負けなし。
しかし有能すぎるがゆえ、主君の扇谷定正から暗殺される悲劇的な最期を迎えました。
道灌を失った扇谷上杉家は急速に衰退していきます。
前編は↓
川越城本丸屋敷
川越城は、『日本の名城100(No.19)』に選ばれてます。
川越城について
川越城は、長禄元年(1457年)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれています。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていました。現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせています。
川越市ホームページより
内部の写真
木造で趣のある御殿、庭の枯山水がとても惹かれます。
評定をする家老たち。
旧川越城です。
土地が広大ですね(;’∀’)
アクセス
東武東上線・JR川越線 川越駅または西武新宿線「本川越駅」から東武バスウエスト(蔵のまち経由)「札の辻」下車10分
三芳野神社
川越城本丸御殿の向かいにあり、わらべ唄『通りゃんせ』発祥の地と言われています。
御由緒
三芳野神社の創立は古く平安時代の始め大同二年(807)とされています。
長禄元年(1457)太田道灌により川越城が建築されると城内の鎮守として歴代城主の篤い尊敬を受けてきました。社殿は寛永元年(1624)徳川家光の命により、当時の城主酒井忠勝により造営され、後の明暦二年(1658)に修造されました。
頒布資料より
この時に江戸城二の丸東照宮の本殿が移築されたとされています。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその后神をおまつりし後に菅原道真公をおまつりしています。
境内の写真
参道
参道は全長200メートル程度でしょうか。
結構長いです。
拝殿/本殿
末社
末社の『大黒社』と『蛭子社』です。
いずれも埼玉県重要文化財です。
わらべ唄『通りゃんせ』について
三芳野神社は造営後、幕府直営社となり一般の参拝はできませんでした。
一般の参拝は現在の郭町浄水場に二の丸東照宮の拝殿幣殿を外宮として移築していました。
(外宮は氷川神社内の八坂神社として現存)
外宮も城内(田曲輪)なので南大手門から田曲輪まで怖い警護の侍が詰めている細道を外宮の門までいかなければなりません。七つのお祝いとは今の七五三のお祝いで、三芳野神社外宮へ参拝する様子を唄ったものです。
頒布資料より
当時川越は新河岸川の船運で江戸と密接に結ばれていて、このわらべ唄は江戸を通じで全国に広まっていたものだと思われます。
御朱印
三芳野神社は、川越氷川神社の宮司が兼任しています。
そのため川越氷川神社にて拝受しました(書置き・初穂料300円)
アクセス
東武東上線・JR川越線 川越駅または西武新宿線「本川越駅」から東武バスウエスト(蔵のまち経由)「札の辻」下車8分
川越氷川神社
縁結びの神様として知られ、毎年七夕を含む夏には、境内に飾られた2,000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ祭事「縁むすび風鈴」で賑わっています。
御由緒
川越氷川神社は今から約千五百年前、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元(1457)年、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。 また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。
川越氷川神社ホームページより
境内の写真
大鳥居
幅20メートル・柱周3.45メートルを誇る日本随一の大鳥居。
扁額の社号文字は、勝海舟直筆によるものです。
手水舎・拝殿
本殿
風鈴
川越氷川神社と言えば風鈴でしょうか。
当日は七五三でもあり、家族連れや着物姿の女性でにぎわってました。
境内社
川越市護国神社
川越市護国神社
西南戦争以降の川越出身の英霊2970名を祀っています。
柿本人麻呂神社
その他末社
末社が多い(笑)
御朱印
書置き、初穂料は300円でした。
アクセス
東武東上線・JR川越線・西武新宿線下車より東武バス
『川越氷川神社』下車すぐ。『喜多町』下車徒歩5分。
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