川越を歩く③~『河越城の戦い』北条氏康着陣の地・砂久保

2022年8月7日
埼玉県川越市に再び行って参りました。

今回は、小田原北条氏vs扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方の連合軍の戦い『河越城の戦い(河越夜戦)』の舞台を歩いていきます。

砂久保陣場跡/砂久保稲荷神社

概要

 砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷おうぎがやつ上杉氏、山内やまのうち上杉氏、古河公方こがくぼう足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦った時に陣が張られた場所です。

 関東の戦国時代は、享徳三年(1454)、鎌倉公方足利成氏が関東管領かんとうかんれい山内上杉典忠のりただを謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々味方を換えながら合戦を繰り返していきます。明応二年(1493)、伊勢宗瑞そうずい(北条早雲)が伊豆の堀越ほりごえ公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵に進出して両上杉氏と敵対するようになります。

 河越城を本城とする扇谷上杉氏では、天文六年(1537)朝興ともおきが没し、朝定ともさだが跡を継ぐと、父の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失う事になります。その後天文十年(1537)、北条氏の代替わりに乗じて朝定は河越城奪回を企てますが失敗します。

 単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康うじやす駿河するが今川氏との対戦のために駿河国境に出陣の隙を衝いて、天文十四年(1546)九月二十六日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱成つなしげ(氏康の義弟)と同宗哲そうてつ(幻庵=氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、十二月二十七日に上杉軍に迎えます。こうした状況に氏康は、河越城の死守を優先し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、十一月初めころに小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越します。

 天文十五年に入ると氏康は、足利晴氏に城兵三千人の助命嘆願をしますが拒否されます。しかし三月初めに扇谷上杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑ぜんかんを離反させ味方に引き入れた事で、氏康は四月十七日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を嘆願しますが、取次を拒否されると、四月二十日、上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも討って出て両方面で北条方は勝利します。その結果上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀ぜんぎんが戦死し滅びます。

 一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵三千と援軍八千の北条軍が連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。

 いずれにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、関東の戦国史を語るうえで貴重な合戦であったことはまちがいありません。

現地案内板より

境内の写真

本殿

旗竿置場

その名の通り、大きい旗に使う竿を置く場所でしょうか。

アクセス

砂久保陣場跡/砂久保稲荷神社

東武東上線 新河岸駅より徒歩20分程度(巡回バスあり)

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