2022年8月6日
再び川越に行って参りました。
前回の続きです。
稲荷山 東明寺

概要
東明寺は、時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。
お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を了する多くの武士団が存在した。東明寺は、こうした土豪の一人河越師の庄園の東端に連なる広い寺領を有していた。
その寺領は、東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから、喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文十五年(1564)四月に戦われた上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺領と境内で争われたものである。
現地案内板より
境内の写真




本堂


稲荷諏訪天満宮

難波田憲重が落ちたと言われる
古井戸があった塚の上に鎮座してます。
河越夜戦跡

天文六年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢八万余騎をもって、同十年十月に川越城を包囲した。
一方福島綱成のひきいる城兵は、わずか三千でたてこもっていたが、翌十五年春にはすでに兵糧も尽きて非常に苦戦におちいっていたところ、北条氏康が八千騎をひきいて援軍としてかけつけ、四月二十日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。
多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々になって松山口に向かって敗走をはじめ、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。 敵に比べてもんだいないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦力として有名である。
現地案内板より
御朱印
御朱印は現在休止中でした。
アクセス
川越駅からバス 『裁判所』停留所下車徒歩3分
西武新宿線 本川越駅徒歩23分
東武東上線 川越市駅徒歩25分
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