2022年7月9日
引き続き京王線の沿線を歩いています。
今回は『京王よみうりランド』駅周辺です。
小沢城址

概要
小沢城は、鎌倉時代式の防衛線としての山城であったと伝えられています。当時、北側は多摩川を眼下にのぞむ峻険な崖で、敵が容易には近付けない天然の要塞としての条件をよく備え、府中方面を見渡せる戦略上重要な拠点でありました。
城主は、小沢郷を領した稲毛三郎重成、妻は源頼朝の妻政子の妹で、頼朝の重臣として熱い信頼を受けた人です。重成は、この城を拠点として今の高津、中原区方面まで勢力を拡大しました。建久6年(1195)妻綾子をなくしてからは入道重成と称し、その後城を長男の小沢小太郎重政に譲り、自らは東南4kmにある枡形城へ移ったと言われています。この城の近くは、鎌倉道が通る交通の要衝で、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。なかでも、鎌倉時代末の元弘3年(1333)新田義貞の軍勢と北条高時の幕府軍との分倍河原(府中市)の合戦は有名です。「太平記」には、5月15・16日の両軍の激戦で、多摩川の防衛線を破られた幕府は6日後の5月22日に新田義貞により滅ぼされたことが記されています。
南北朝時代には、足利陣営の分裂により観応2年(1351・南朝年号では正平6年)足利尊氏の弟直義の軍勢が立てこもる小沢城を、尊氏の子義詮の命を受けた関東の武士高麗経澄が攻め落とすという戦いがありました。また、戦国時代の永正元年(1504)に射は、扇谷上杉朝良を助けるため北条早雲の軍勢が山内上杉顕定の軍を打ち破った戦い。さらに、享禄3年(1530)には、小沢城の争奪戦ともいえる城の近くの小沢原で北条氏綱の子氏康と武蔵最大勢力を持つ上杉朝興との大きな戦いがあり、若干16才で初陣した氏康の北条方の勝利を「小田原記」は記しています。
このように歴史上多くの足跡を残してきた小沢城址には、今なお空堀、土塁、物見櫓、館、馬場、井戸などの跡と思われる遺構が残っています。また、近くには城下、馬場、おきの鍛冶屋などの地名も残っていて、城であった頃の名残を今に伝えています。
江戸時代になると、この城跡は地元や近郷近在の人達による初午行事や富士山信仰の場として利用されるようになりました。峰沿いには当時の講中の人達によって建てられた文化3年の詞や万延元年の富士登山33度大願成就の記念碑などがあります。
現地案内板・小沢城址里山の会公式ホームページより
氏康の初陣については、下記の動画が参考になると思います。
(YUKIMURA CHANNELさんより)
MAP

現地の写真
土塁?





平場











かなり広がっています。
山中にこれだけの平場を作るのは骨が折れた事でしょう。
社

ポツンとお社が立っています。
冨士登山の記念碑

大きな碑は昔の冨士講(冨士信仰の講社)の三十三回登山記念碑で明治九年(1876)に、小さな碑はさらに古く万延元年(1860)に建立されたものです。
多摩区金程、黒川から稲城市にかけての地域に「山冨講」という冨士講があり、講社の笠印は冨士山形の「冨」の講紋を持っていました。後ろの小高い所は冨士塚で登ることで冨士山に登ったことと同じご利益が授かると言われています。塚の築造当時には冨士浅間神社石碑がありましたが現在は失われています。
現地案内板より
アクセス
京王相模原線 京王よみうりランド駅徒歩10分
京王稲田堤駅徒歩15分
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