2022年4月30日
都営三田線千石駅(小石川)→白山あたりを歩いてきました。
毎度のごとく目的地がどんどんブレています(笑)
諏訪山 吉祥寺

武蔵野市にある『吉祥寺』と離れた場所にありますが、当寺院が地名の由来です。
当院門前の住人が明暦の大火で住居を失い移住。
五日市街道沿いを開発・移住したことにより名付けられました。
概要
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのが始まりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢病院の前身)をもち、一千余名の学僧が学び当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
現地案内板より
境内の写真
参道


茗荷稲荷


当吉祥寺は明暦大火の際府内よりこの地に移り、家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、寛文年間疫病まんえんの折祈願の人絶えず、特に疫病の根治に霊験ありとされ、茗荷を断って心願する者多し。去る先生に諸堂焼失せるも昭和二十八年この地に再建、堂裏にある茗荷権現碑は下総国府台八十右ェ門なるものが文久年間建立したものなり。
現地案内板より
経蔵


江戸時代、この寺は曹洞宗の修業所栴檀琳として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元)古いきまりによって再建したものと考えられる。
旧経蔵は、1686年(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に消失と伝えられる。1993年(昭和8)に大修復を行った。
屋根は棧瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた「二重宝形造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。
蔵内に経典を収蔵する八角形の輪転蔵がおかれている。建造物としての価値と共に、東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。
現地案内板より
本堂



お七・吉三郎 比翼塚

榎本武揚の墓



天保七年(1836)ー明治四十一年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣・政治家。蘭学をはじめ広い学識を持ち、オランダ留学後海軍奉行。海軍副総裁となったが討幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権大使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務相などを歴任、子爵となる。
現地案内板より
二宮尊徳(金次郎)の墓


川上眉山の墓

鳥居耀蔵の墓



鳥居耀蔵は江戸末期の旗本。
遠山景元(金四郎)を失脚させた後の南町奉行に就任しました。
民衆の評判がよくなかった奉行時代。持っている知識をいかんなく教えたことから尊敬される人物となった晩年。年代により正反対の評価をされています。
時代劇『影同心』では、法で裁けぬ悪人を成敗する司令塔の役を担っています。
御朱印
御朱印は現在休止中でした。
アクセス
東京メトロ南北線 本駒込駅より徒歩5分
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