2022年4月30日
都営三田線千石駅(小石川)→白山への散歩、続きです。
繁栄山 養昌寺

曹洞宗の寺院で、半井桃水・上野陽一のお墓があります。
概要
曹洞宗寺院の養昌寺は、繁栄山福寿院と号します。養昌寺は、僧傳春(寛文七年寂)が福聚院と号して池之端に創建、寛永8年(1631)本郷湯島天神台に移転、明山密大和尚禅師を開山に迎えて養昌寺と改号、天和3年(1683)当地へ移転したといいます。
猫の足あとさんより
境内の写真
参道


無縁塚・地蔵


半井桃水の墓

万延元年~昭和元年(1860~1926)。対馬に生まれ、名は冽。桃水は号。別号は菊阿弥。
共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著した。
桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。
現地案内板より
上野陽一の墓

上野陽一さんは、産業能率大学の創始者で『能率の父』と呼ばれています。
御朱印

とても優しいご住職で、上野陽一さんのお墓までご案内いただきました。
御朱印祈祷料は300円。
アクセス
東京メトロ南北線 本駒込駅より徒歩5分
南縁山 圓乗寺

天台宗の寺院です。
八百屋お七のお墓があります。
概要
圓乗寺は、圓栄法印が天正9年(1581年)本郷に密蔵院として創建したのが始まりで、
元和6年(1620年)寶仙法師が圓乗寺と寺号を改め、
寛永8年(1631年)明暦3年(1653年)に当地へ移転したと言う。
江戸時代には、境内が1,770坪あったが、
戦後の混乱期に地域の人に分け与えたとのこと
圓乗寺ホームページより
境内の写真
参道




本堂







本堂も撮影の許可をいただいてます。
八百屋於七地蔵尊(八百屋お七の墓)



お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。
現地案内板より
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年(1682)12月、近くに寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。
やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。
三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
江戸時代もようやく爛熟期を迎え、泰平の世となったとき、於七の事件は当時の民衆にとって一大事でした。放火は重罪とはいえ、戦乱時以外で女性の火刑が行われたのは於七ただ一人だったのです。
恋のためとはいえ、ひたむきで純情可憐な於七の心痛を察し、当時の人々は同情.哀憐な思いを寄せました。瓦版が北は蝦夷・松前、西は京・大阪、南は薩摩・琉球と、全国津々浦々にいち早く伝わったことからも、当時の人々の於七に対する気持ちがうかがえます。
井原西鶴は「好色五人女」の中で《世の中のあはれ春吹く風に名を残す遅れ桜の今日散りし身は》の一首を辞世としています。
このほか、於七の物語は、浄瑠璃・歌舞伎・舞踊・小唄・演劇などに数多く取り扱われております。
於七は恋人の夢枕に現れ、西方極楽浄土に往生したと、在世のとき所持していた一体の地蔵尊を残し、西に向かい光明を放ち、紫雲に乗って飛び去ったといわれています。この地蔵尊が八百屋於七地蔵尊であり、昔から縁結び・火伏として、現在でも多くの人々の信仰を集めています。
配布資料より
御朱印

しっかり描いて下さいました。
祈祷料500円。
お七がデザインされた御朱印帳があったのですが、
3500円だったため、さすがに尻込みしてしまいました(;’∀’)
アクセス
都営三田線 白山駅より徒歩3分
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