国府台を歩く①~小田原北条家・里見家激戦の跡

2022年1月9日
千葉県松戸市~市川市の『国府台』周辺を歩いてきました。

国府台(こうのだい)は戦国時代、小田原北条家と里見家が二度に渡り激戦を繰り広げた場所です。

国府台古戦場跡/野菊の墓文学碑

史跡 国府台の戦争 
 今から約400年前、この国府台で二度の大戦争があった。それぞれ敵味方千人以上の戦死者がここにしかばねをさらした。

 今の真間山から松戸駅東側の台地までを国府台といい、第一回の戦争は天文七年(1538)10月7日、相模台の合戦ともいい、これをさきの(第一次)国府台合戦という。第二回はこれより25年後永禄七年(1564)正月七日の合戦でこれをのちの(第二次)国府台合戦という。それはここ矢切台で戦われた。

合戦の背景
 この時代の関東地方はだいたい小田原の北条氏の勢力下にあり、松戸大谷口城主高城たかぎ氏や、千葉氏、原氏などもその支配下にあった。
これに対して安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、県北の下総地方へも手を伸ばして千葉、原、高城らを攻め、やがて北条氏をも破って関東の実権を握ろうと野望をいだいて茨城の佐竹氏を通して上杉謙信とも手を結んだ。

合戦のもよう
 矢切側には里見義弘を大将として八千騎、これに対して江戸川柴又、小岩川に北条側は、江戸城代家老遠山丹波守直景と火災の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
 この時、小金大谷口城主高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
 遠山、富永等は大将北条氏康、氏政父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し渡り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。

 遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが、勢いにのった遠山軍が大坂の途中で攻め登った所を、一挙に坂上から攻め落とした。北条方の勇将富永三郎右衛門尉は、朝からジュンサイ池付近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった。
 この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いたが、この夜半、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、さんざんの大敗北となり、大将里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起する事はなかった。

現地の案内板より(一部加筆)

野菊の墓 文学碑

 矢切を舞台にしている伊藤左千夫の純愛小説「野菊の墓」を記念して昭和40年に建立された文学碑で、伊藤左千夫の門人土屋文明の筆により、「野菊の墓」の 一節が刻まれています。

 隣接する野菊苑公園とともに高台にあり、矢切の田園風景から江戸川を一望することができる眺望スポットにもなっています。

松戸市ホームページより

野菊苑公園

高台より矢切の田園風景を一望。
一枚目の向かい側が東京で北条家側の陣地、手前が松戸で里見側の陣地です。
この地帯では激しい戦闘だったんでしょうねえ。

また、この場所は野良猫がたくさん出没するようです。
人懐っこい猫なので、猫好きの方にはいいかもしれないですね。
※餌やりは禁止なのでご注意を!

国府台合戦古戦場

北総線 矢切駅より徒歩10分

国府台城跡(里見公園)

里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。

その後、室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。

江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。

市川市ホームページより

公園内の写真

ところどころに石垣があり、城跡であることがわかります。
また、高台であることから、東京スカイツリーと富士山が一望できました。

里見群亡の碑

 永禄七年(1564)一月四日、里見義弘さとみよしひろは八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。しかし、八日払暁ふつぎょう北条軍は寝込みを襲い里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。
鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀たちよ馬に鞍おけとさけびまた太刀一振たちひとふ鎧一領よろいいちりょうに二人三人取付とりつて我よ人よとせり合ひ、兜許かぶとばかりて出づるもあり鎧着てから手で出づるもあり」という狼狽ぶりを呈しました。

 この合戦で敗北し里見軍は里見広次さとみひろつぐ正木内膳まさきないぜんらをはじめとして戦死する者五千名と伝えております。その後里見軍戦死者の亡霊を弔うものもなくやっと文政十二年(1829)に至って里見諸士軍亡塚しょしぐんぼうづか(左側)里見諸将霊墓しょしれいぼ(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。

 ここに二六五年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。

現地案内板より

夜泣き石

 永禄7(1564)年に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。
 姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。

市川市ホームページより

明戸古墳石棺

 市川市の文化財に指定されているこの2つの石棺は公園裏山内にあり、文明11(1479)年に太田道灌がここに城を築いたときに盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。
 板のような緑泥片岩製の組み合わせ式箱型石棺で蓋石は見られませんが古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)この地方に勢力をふるっていた豪族の墓と推定されます。この地方に箱型石棺があるのは極めて珍しいといわれています。

市川市ホームページより

国府台天満宮

飛び地にある天満宮です。
文明十一年(1479)当地の鎮守として、太田道灌が建立したと伝えられています。

国府台城跡

JR市川駅または京成国府台駅から、「松戸駅行き」または「松戸営業所行き」バス
「国府台病院」下車 徒歩5分

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