大阪を歩く④~柴島①『返り討ち』の崇禅寺

2022年11月21日
大阪市東淀川区にある柴島へ行ってきました。

面積の半分を浄水場が占める街であり
上方落語家・桂華紋さんの出身地です。
まずは、歴史上の有名な人物が眠る崇禅寺へ伺います。

凌雲山 崇禅寺

曹洞宗の寺院です。
一時、大阪府の前身である摂津県・豊崎県の県庁所在地であったことから、境内は大阪府の史跡にしていされています。

沿革

 当寺は、今より千二百年余り前、奈良時代の天平年間(729-748)に法相宗の行基によって創建された。その後、嘉吉元年(1441)六月の嘉吉の乱で、室町幕府第六代将軍足利吉教公が播磨守護赤松満祐に京都で殺害され、赤松の一党が居城の白旗城に逃げ落ちる途中、義教公の首を当寺に葬った因縁により、翌二年(1442)に時の守護細川持賢より大伽藍と寺領の寄進をうけ、足利義教ならびに細川家の菩提寺として再興された。その折、徳叟亨隣大和尚を開山とする曹洞宗に改められた。したがって当寺には足利義教公の首塚と徳叟亨隣大和尚の墓があり、またその墓と並んで細川ガラシャ夫人の墓がある。

 (中略)正徳五年(1715)十一月四日、当寺境内でだまし討ちとなった遠城兄弟の墓がある。大和郡山の藩士遠城治左衛門と安藤喜八郎(安藤家へ養子)の兄弟は、末弟の宗左衛門が剣術の試合で負かした生田伝八郎に闇討ちとなった仇を討とうとして、伝八郎の多勢の門弟らのために返り討ちにあったのである。当時の住職十四世門啓天岑和尚と元江戸町方与力の勝見宗春氏が墓碑を建立して亡魂を弔ったものである。この事件は赤穂浪士の討入りのわずか十二年後のことで大評判となり、特に竹田小出雲、近松半二らの合作の浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」により広く知られるようになった。

頒布パンフレットより

MAP

境内の写真

山門・県庁所在地跡碑

本堂

客殿

納骨堂

石庭

枯山水の庭です。

地蔵堂・観音堂

足利義教の首塚と細川ガラシャ夫人の墓

足利義教の首塚

 嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨守護の赤松満祐(1381-1441年)は室町幕府6代将軍足利義教(1394-1441年)を京都西洞院の自邸に招いて暗殺して(「嘉吉の乱」という)領国に落ちのびる途中、義教の首を当寺に埋葬した。その討伐に戦功のあったあった細川持賢(1403-1468年)は摂津守護に任ぜられ、翌嘉吉2年(1442年)に当寺を義教ならびに細川家の菩提寺とした。その後も甥の管領細川勝元(1430-1473年)から手厚い庇護を受け、寺領の拡大と整備がなされた。

現地案内板より

細川ガラシャの墓

 関ヶ原合戦の直前の慶長5年(1600年)7月17日、明智光秀(1528-1582年)の三女で細川忠興(1563-1646)の正室であった細川ガラシャ(1563-1600年)は、西軍の石田三成の人質として取られるのを拒絶して大阪玉造の細川邸で家老・小笠原小斎の長刀のもとに、38歳の生涯を閉じた。宣教師のオルガンティーノが細川邸の焼け跡から遺骨を拾い、細川家ゆかりの当寺に埋葬した。戒名は秀林院花屋宗玉大姉。周りの小さな五輪塔は殉死した家臣の墓である。

現地案内板より

遠城兄弟の墓

遠城兄弟の墓

 江戸時代の正徳5年(1715年)11月14日、崇禅寺馬場において大和郡山の藩士、遠城治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が末弟の遠城宗左衛門の仇、生田伝八郎を討とうとして返り討ちとなった。
この事件は赤穂浪士の討ち入りからわずか13年後のことで、特に竹田小出雲・近松半二らの合作による浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」で一躍有名になった。当寺住職14世住職十四世門啓天岑和尚と元江戸町与力勝見宗春が「剣樹心英居士、刀山天雄居士」の墓碑を建立して兄弟の墓碑を弔った。

現地案内板より

御朱印

書置きの御朱印を自由に持っていくようです。
祈祷料なし。

アクセス

凌雲山 崇禅寺

住所:大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目27−44

阪急電車 崇禅寺駅より徒歩5分・柴島駅より徒歩10分

コメント

タイトルとURLをコピーしました