大阪を歩く⑤~柴島②地名の起源と城址

2022年11月21日
大阪市西淀川区の柴島周辺を引き続き歩いていきます。
※柴島は『しばしま』ではなく、『くにじま』と読みます。

柴島神社

御由緒

 社伝によれば、第八十七代四条天皇の御代貞永元年中秋頃一ヵ月余り大洪水に見舞われ、人々は嘆き悲しんでいた。当時この地は”仲哀天皇の森”と呼ばれ仲哀天皇を産土神として奉斎し、他所より一丈(約三メートル)程高地だったので村人達は避難していた。九月二十七日になり、柴に乗った小社が流れてきて当地に漂着した。
その夜三人の里長に”神のお告げ”があり、水難を免れた村人達は林の中を整備し、この小社を守護神として祀ったのが創めと伝えられる。神勅により、神様が柴に乗って来られたに因み里の名を柴嶋とし、八幡大神天照皇大神・春日大神の三柱を産土神として祀られている。御旅所を字小金畑に設け仲哀天皇社を奉遷した。
当社は元、原外島字白妙(淀川河川敷辺り)に在り樹木茂り、明治五年村社に列す。明治時代に水害防止の為の淀川改修工事が行われ、明治三十四年四月二十六日現在の字調布に奉遷され、仲哀天皇社も明治四十二年二月十六日境内に奉遷された。

(中略)昔から当社に伝わる御神刀は室町・鎌倉時代のものと鑑定され、大阪府指定有形文化財となっている。

拝受資料『柴島神社参拝のしおり』より

柴島の地名に関する諸説

 当地は、徳川時代以降は徳川領・戸田越前守領・徳川領・田安家領の順に諸侯の領地となり明治に至る。旧幕の頃は村内を南北に分け、南柴島は農業を専業とし、北柴島は淀川を利用して布木綿を晒すものが多く住んでいた。國嶋と書かれた時代もあり、利島・田蓑島・御幣島・三島・大隈島等と共に難波八十島の一つである。

★柴島神社の創祀に因るとするもので、大日本地名辞書には「柴を久璽と読むのは古言なるべし、北越方言に柴籬を久璽と言うのは今なお然り」とある。
★古くは”茎の渡し”と言い、藤原顕季(あきすえ)の歌に「葉替えせし 蓽もまたらになりはてて くきの渡しは淋しかりけり」とあり、難波八十島の一つで茎島より訛ったもの。
★櫟島(くぬぎしま)の転語とするもので、昔は各地に櫟の山林があり、材木に不敵なため柴薪として炭としていた。この島に櫟多く茂り柴薪として伐り出していたので「櫟島」とま「柴しま」とも呼んでいたのを、後に柴島と書いて”くぬぎ島”と言いて、転じて”くに島”と呼ぶようになった。

拝受資料『柴島神社参拝のしおり』より

境内の写真

『柴島西公園』からも通り抜けることができます。

本殿

摂社 仲哀天皇社

末社 住吉神社

『柴島晒』ゆかりの地碑

 江戸時代、大坂の周辺では綿花の栽培が盛んで、それを原料とした木綿業が発達していました。柴島一帯では、淀川の流れを利用して木綿を洗い、それを干して乾燥させ、日にあてることで白く加工するという、晒業さらしぎょうが営まれていました。
はじまりは文禄三年(1594)にさかのぼるともいわれています。『摂津名所図会大成せっしゅめいしょずえたいせい』という書物には、淀川の堤防上に白く敷き詰められた木綿が、まるで雪が降り積もったようで、たいへん美しかったと記されています。
明治の末には、年間800万反を生産し、大阪の主力産業のひとつでしたが、淀川の改修工事や柴島浄水場の建設などの影響もあり、むかしからの晒業はおとろえてしまいました。

現地案内板より

御朱印

宮司さん不在で拝受できませんでした。
これもご縁ですね。

アクセス

柴島神社

住所:大阪府大阪市東淀川区柴島3丁目7−30

阪急電車 柴島駅より徒歩8分

柴島城跡

 この城初め十河一政により築かれ、天文十八年細川晴賢・三好宗三の兵が此のに拠るや、三月に三好長慶が大軍を率いて中島に向えば、城兵出でて防戦に努めるも、敵多勢により敗れ三好加助・河原林又兵衛ら味方十六人まで討死したので残兵城を棄て江波城(榎並城)に退くと伝える。
その後元和三年より九年まで稲葉淡路守紀通(後、丹波福知山城主となり慶安元年八月二十日城内で自刃す)此の城に居りて、橋寺村・江口村・大道村辺りを領す。いつ頃からか廃城となった。当時を物語る本丸・城道の地名は近年まで残っていた。

拝受資料『柴島神社参拝のしおり』より

アクセス

柴島城跡

住所:大阪府大阪市東淀川区柴島2丁目19−5

阪急電車 柴島駅より徒歩5分

コメント

タイトルとURLをコピーしました