松戸市を歩く②~小田原北条家国衆・高城氏の足跡

2021年12月4日
千葉県松戸市を歩いてきました。こちらは後編です。

前編はこちら↓

金龍山 広徳寺

曹洞宗の寺院です。
戦国時代、この地域を支配していた国衆・高城氏のお墓があります。

由来

曹洞宗 曹洞宗は鎌倉時代の安貞元年‐嘉禄3年‐(1227)に高祖(こうそ)道元(どうげん)禅師(ぜんじ)様(28歳)が中国より日本に伝え、永平寺をお開きになり、四代目の太祖瑩山(たいそけいざん)禅師(ぜんじ)様が全国各地に教えを広められました。
曹洞宗では、道元様、瑩山様を「両祖(りょうそ)」と申します。

広徳寺ホームページより

境内の写真

参道

150メートルくらいでしょうか。

弁財天

本堂

高城氏の墓所

広徳寺は曹洞宗の小金領内普及の中心となった寺である。
当寺は高木高城胤吉(たねよし)により栗ヶ沢に開山されたとされ、小金城主歴代のお墓がある。

高城氏は天文七年(1538)に小田原の北条氏に味方し、二度に渡り安房の里見氏と戦い、大いに功績を挙げ、所領も広大な地域になった。天正十八年(1590)北条氏と共に豊臣秀吉軍と戦い、小金城は浅野長政と共に攻略され落城した。

現在の墓石は江戸時代に建立したもので、徳川氏に遠慮し胤則の妻の家系である藤原氏を名乗っている。

境内案内板より

御朱印

直書きをして頂きました。とても優しいご住職さん。
祈祷料は「お気持ちで」とのことです。

アクセス

広徳寺

流鉄流山線 小金城趾駅より徒歩3分

小金城址

 小金城の規模は南北約600m、東西約800mに及ぶ県下最大級の中世城郭です。下総台地西端の複雑な地形(高低差が約15m)を利用し、さらに大規模な土木工事(削平、堀削、盛土)を施すことによって高さ2~3mの土塁、深さ1m前後の空堀を縦横にめぐらせ、台地上を区画し本城、中城、番場など九~十の曲輪を連続させる構造となっています。

 小金城主の高城氏は千葉氏の一族、または千葉氏から分かれた原氏の一族といわれ、松戸市域での活動は十五世紀中頃に栗ヶ沢に館を築いたのに始まり、その後、勢力を増やすことに根木内城、小金城と本拠地を移してきたといわれています。
 戦国時代の末には小金城を拠点として現在の松戸、市川、船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、我孫子などを支配し、東葛飾地方最大、下総国有数の領主、武将となりました。
このころ高城氏は、小田原北条氏関係の古文書に『金』あるいは『高』と書かれたものが残されていることから、北条氏の軍事的勢力に組み込まれていたことがわかります。

 第一次国府台合戦(天文七年・1538)、第二次国府台合戦(永禄七年・1564)では北条方として戦い、相模国(神奈川県)にも領地を得ます。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡、高城氏もまた運命をともにし、小金領主としての役割も終わります。

大谷口歴史公園内の石碑より

復元絵図

大谷口歴史公園

金杉口跡

 ここは金杉口(かなすぎぐち)と呼ばれる小金城の虎口(出入口)の一つです。小金城には大手口(東)達磨口(北東)金杉口(北)大谷口(南)の四つの虎口があったとされています。

公園内案内板より

堀(障子堀)

(前略)この空堀は、虎口から約20メートル程の地点から掘られており、途中一ヵ所に高さ2メートルの間仕切り(障子)が造られて、堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっています。

このような構造のものを『障子堀(しょうじぼり)』と呼んでいます。また、この空堀は、砂地を掘り下げて造られているため、底、壁共に砂質で、非常に水捌けは良くなっています。

公園内案内板より

土塁

(前略)金杉口では、西側から北側にかけてL字状に見られます。
その構造は、城の内側から約50センチ掘り下げ、台地の緑辺部に土塁の底になる部分を幅約3メートルの帯状に残します。その上に粘土を盛り上げて高さ約1.5メートルの土塁としています。
土塁としては低くみえますが、外側の空堀の構造から見て、敵の侵入を防ぐと云うよりも、自分の身を隠す程度の機能であったろうと思われます。

 小金城では、他にも粘土や赤土(関東ローム)をそれぞれ約10センチ位の厚さで突き固め、それを交互に高さ2メートル以上に積み上げた土塁も確認されています。

公園内案内板より

堀(畝堀)

 ここで発見された堀は幅7メートル、深さ約3メートル(現地表面から)と規模では普通です。しかし、堀底に断面が蒲鉾型の畝(高さ約90センチ)が堀の方向と直行する向きに連続して作られた、全国的にも珍しい構造をしています。
この施設の利点は、侵入した敵が堀底の小溝に足をとられ、横への移動がしずらくなり、その敵を狙い打てることだと云われています。特にこの畝堀(うねぼり)は、畝部分が粘土層を彫り込んでおり、非常に滑りやすく、効果的となっています。

 堀底に加工を施した堀は、関東地方では小田原北条氏の軍事的勢力下にあった城に多く見られるところから、小金城(高城氏)の戦国時代末の状況が、古文書だけでなく、城の施設からも伺うことができそうです。

公園内案内板より

大谷口達磨口跡

アクセス

小金城址(大谷口歴史公園)

JR常磐線 北小金駅徒歩15分
流鉄流山線 小金城趾駅徒歩10分

熊耳山 慶林寺

こちらも曹洞宗の寺院。
小金城を築いた高城胤吉(たねよし)の妻・桂林尼のお墓があります。

御由緒

 小金城主高城胤吉が、永禄八年(1565)に病没すると、その妻は胤吉の菩提を弔うため髪を下ろし桂林(けいりん)尼と号して、この地に庵を建てます。桂林尼の死後、子の胤辰(たねたつ)が庵のあった場所に母の霊を弔うために寺を建立したのが慶林寺の始まりです。

 寺号は最初、桂林寺でしたが天正十九年(1591)徳川家康から御朱印十石を受領し、その時から慶林寺となりました。

 なお、本堂の裏手に、享保十五年(1730)に建てられた桂林尼の墓があります。

境内の写真

参道

50メートル程度でしょうか。

本堂

平和の鐘

感染症対策のため、現在は突けないようになってます。

桂林尼の墓

松戸市指定史跡です。

月菴桂林尼は、小金大谷口城を築いた高城胤吉の妻で十三代千葉介昌胤の妹にあたり胤吉の死後(永禄八年 1965年2月12日)剃髪して月菴桂林尼と称し、鹿島神霊の辺に菴を結んだ。

そして胤吉の没した翌月の3月12日に永眠した。その子従五位下、下野守小金城主胤辰は、桂林尼追福のために同所に慶(林)寺を建立した。

境内案内板より

御朱印

ご住職が不在だったため、書置きを拝受しました。
祈祷料は『お気持ちで』とのことです。

アクセス

慶林寺

JR常磐線 北小金駅徒歩3分

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