2022年5月6日
神奈川県の三浦半島先端まで行ってきました。
今回は三崎城へ登っていきます。
三崎城跡

歴史
ー位置ー
三崎の城は三浦半島の突端、三崎にあり、城ヶ島に対する部分に突出した台地の先端で、陸に続く一方を深く掘りきって城としたものである。
標高三十米ある丘陵の首部が掘切られたものであるから、海からは周りが絶壁に取まかれた極めて高い山城に見える。
もともと海正面に対しての防備は厳重を極め、三重の空堀をめぐらしていた。現在二町谷から深く喰い込んだ谷が三崎中学校の北側に達しているが、これは自然の谷に人工を加えた空堀でこの彫から南側が三崎城である。三崎城跡は、北条山城又は宝蔵山城跡とも呼ばれる。
ー沿革ー
三崎城は北条五代記には、「永正十五年七月十一日三浦同寸討死し、其節出口五郎左衛門尉茂忠、三崎の城に有しが…」又「三崎城は永正十五年早雲寺殿再興あり」と書いている。
北条九代記は「御崎に城を取立て…」、小田原記は「永正十三年早雲は三崎に城を取立て…」と記しているから、房州の里見に対する新井城の守りとして築かれていたものであるらしい。同寸滅亡後、早雲は同じく房州の里見に対しての押としてこの城を再興し、三浦の残党を召出して扶助を加えて寄騎として横井越前守を大将とし、小林平左衛門以下与力三十人、手勢八十騎、三浦与十騎、雑兵二百人を差添えて守らせた。
この小林左衛門門以下と云うのは、新井城が陥って後城を守っていた出口五郎左衛門重忠以下の三浦残党が城を捨てて三浦の全舟を率いて城ヶ島に籠り、北条氏に楯つき海を渡ってしばしば襲いかけたので、北条氏もこれには手を焼き、建長円覚両寺が仲裁に立って面目を立てたので講和し、亀崎・鈴木・下里・三富氏等の中から主だったものを十人選び三崎十人衆として北条氏に属したと言われる人々のことであろう。其の後弘浩二年三月上旬、房州里見左馬頭義弘が兵船八十余艘を率いて三浦に押渡り、城ヶ島に陣を取り、枝舟を下して陸に攻上ろうとしたので、北条方三浦番手の舟奉行梶原備前守・富永三郎左衛門・遠山丹波守等が出向いて戦った記録があるが、これは三崎と城ヶ島との間での海戦であり、結局は北条軍が勝ち、里見軍は房州へ逃げ去ったのである。
其の後もづつと横井越前守が城代として居たことは、天文七年十月の御弓御所との戦に北条氏綱に従って奮戦した彼が佐兵衛左義明を討ち取ったときの記事に記されている。
元亀二年春の里見氏との海戦には三崎軍が敗れたと伝えている。
三浦半島城郭史 上巻より抜粋 三浦市役所にて受領
要するに三崎城は、北条氏の海賊衆即ち海軍の根拠地であった。
かくして三崎城は天正十八年に北条氏が滅亡するまで引き続いて存在したことは明らかである。
三崎城説明図

説明板の反対側が本丸跡です。
写真を撮り忘れてしまいました…痛恨のミス(;’∀’)
また行く機会はあるので、その際に撮影してこよう…
城址の写真
大手門へ続く坂道(推定)



この3枚は、説明図の中央左下・大手門へ向かう道だと思われます。
3枚目の坂を登り切った場所が大手門かな?
※2枚目に見える建物は三浦市役所です。
搦手



こちらの3枚は、説明図右側。
搦手(裏門)に向かう道と思われます。
慰霊堂(搦手?)



こちらは、説明図の右下。
現在は慰霊堂になってます。ここも搦手だった?
土塁(三崎小学校脇)




説明図左端、三崎小学校の脇です。
この辺にも土塁が残ってますね。
本瑞寺裏

本瑞寺裏側。この坂を下り、大手門への道へ合流します。
土塁(本瑞寺・光念寺)

本瑞寺と光念寺を隔てる土塁跡です。
アクセス
京急久留里線 三浦海岸駅or三崎口駅よりバス『三崎港』停留所より徒歩5分
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