2023年5月28日
約1年ぶりに三浦半島の先端へ行ってきました。
まずは新井城からスタートします。
新井城址

歴史・概要
新井城
相模湾に突き出した小さな半島、それ全体が戦国時代に存在した三浦氏の本城、新井城です。
海抜22メートルの険しい断崖に囲まれた天然の要害にさらに手が加えられています。わずかに陸続きだった東を掘切って橋が架けられ、本丸は断崖と土塁、空堀に囲まれ、空堀の両端は断崖になっています。新井城は難攻不落の城として知られていました。
「百期向かうといえども力攻めにはなりがたし、ただこれ、嶋城なり」『北条五代記』にはこのように記されています。
しかし、時は戦国時代、相模掌握を狙う伊勢宗瑞(後の北条早雲)は、障壁となる三浦氏を倒そうと六千騎で三崎要害に攻め寄せました。三浦氏は3年間という驚異的に長い籠城に耐えましたが、援軍の望みも断たれ、兵糧も尽きて永正十三年(1516)七月十一日、新井城で滅亡しました。
パンフレットより 中世三浦歴史探検隊
MAP

城址の写真(油壷湾側)
空堀・土塁(油壷湾側)



保存状態がとても良いですね!
油壷湾




油壷湾
油壷の名のいわれは、永正十三年(1516)新井城(今の油壷一帯)を最後の居城として立て篭もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は自刃、他の将兵も討死、または油壷湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一帯が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世『油壷』といわれるようになりました。
北条五代記には、三浦一族全滅のもようを次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より電ががやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物ありて干戈をみたし、虚空に兵馬馳せ散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」
三浦市
荒井浜




天気がいいと富士山が見えます。
当日は道寸祭りで、メインイベントである『笠懸(かさがけ)』の練習が始まってました。
道寸祭り・笠懸については別記事にて。
三浦一族資料館






新井浜にあります。
三浦一族・ゆかりのある部将や、源頼朝公の歴史も展示されてました。
城址の写真(東大臨海研究所側)
通常は侵入不可なのですが、毎年道寸祭りの日のみ解放されます。
虎口?


手前に臨海研究所の門があります。
ガイドさんのお話によると、はっきりした場所はわからないですが、城址の形状からこの辺が虎口だろうとのことです。
空堀・土塁(東大臨海研究所側)



反対側から見ると、こんな感じなんですね!
高やぐら


高やぐら
三方絶壁に囲まれて新井城の上はほぼ平らであるため、見晴らす場所がありません。土塁の中央に土を高く盛って高やぐらを築きました。後の天守閣の原型です。ここで太鼓や金を鳴らして城兵に伝達をした場所だったと思われます。1997年、研究棟建設のためおおきく掘削されましたが、高やぐらは新井城の象徴となっています。
パンフレットより 中世三浦歴史探検隊
確かに、ここだけ台地のようになってますね。
本丸跡

本丸(御殿)
土塁、空堀、海抜22メートル以上の崖で厳重に囲まれた南端は字御殿跡という地名が残っていました。1997年の発掘調査により大型館跡の柱穴、中国元時代(13~14世紀)の見事な青磁の壺の破片などが発掘され、ここが本丸だったとされます。また新井城落城を想起させる大量の人骨が深さ6メートルの土坑から発掘されました。
パンフレットより 中世三浦歴史探検隊
現在は東大油壷地殼変動観測所が建っています。

他にも兜の鍬形がここから発掘されたそうです。
空堀・土塁②


西曲輪・二の丸

跡地には、京急油壷マリンパークが建っています。
三浦義意の供養塔


三浦義意(荒次郎)は道寸の嫡男で、最後まで北条氏に抵抗しました。
最期は自分の首を掻き切って絶命。
その首は小田原まで飛んでいき、死してなお北条に抗ったという伝説があります。


三浦義意の肖像画と、首を見て気絶する通行人を描いた絵馬
御城印

この日が初お目見えだったそうです。料金500円。
Tシャツもありましたが、さすがに買えませんでした(;’∀’)
アクセス
住所:〒238-0225 神奈川県三浦市三崎町小網代1024
京浜急行 三崎口駅よりバス『油壷温泉』停留所下車5分程度
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