2023年5月28日
前回に引き続き、三浦市油壷を歩きます。
道寸祭り

概要
中世封建時代にまで遡る三浦一族興亡の系譜は、約四百五十年の栄華と盛衰の三浦の歴史そのものに他なりません。
源氏、北条氏そして足利氏と、鎌倉時代の全盛期、そして室町時代の滅亡に至るまでの一族の活躍と悲哀の物語は、武門の誇りと執念とが交錯した壮大なドラマです。
とりわけ、鎌倉時代初期には一族の三浦義澄、和田義盛が鎌倉幕府を支える十三人の重臣として選ばれ活躍するなど、この激動の時代を駆け抜けた一族の生き様は今も語り継がれております。
また、時を室町時代に移し、三浦一族終焉の地となった油壺、新井城での北条早雲との壮絶な攻防は三年にも及び三浦道寸、荒次郎親子の豪勇振りや、落城の際、道寸と武者のほとんどが油壺湾に朽ち落ちたとされる悲話は、今も波静かな入江の佇まいの中にその面影を忍ばせております。
ここに、祖霊の眠りの安らかならんことを祈ると共に、三浦一族のお家芸であった笠懸を開催することにより、この地に残された文化、遺産を広く世に紹介し、かつ、観光振興の一助とするため、道寸祭りを挙行するものであります。
第46回目の開催となる本年も、多くの方に一族の歴史に触れていただけるよう、盛大に開催いたします。
三浦市ホームページより
三浦道寸(義同)について

戦国の風雲に乗じて相模国の覇権を狙いました。しかし、伊勢新九郎(後の北条早雲)に敗れ、油壷の新井城に滅んだ三浦氏最後の当主です。
1516年(永正13年)7月11日の落城に際し、「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土塊(つちくれ)」と辞世を残しています。
この歌が予言したのか、北条氏は1590年(天正18年)7月11日に豊臣秀吉により滅ぼされています。奇しくも同じ月日でした。
新井城址一般公開用の資料より
笠懸

笠懸(かさがけ)とは
平安末期から鎌倉、室町時代にかけて流行した流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)と並ぶ我が国の古弓馬術の一つ。
源頼朝が三浦三崎遊覧の際、笠懸が催され、三浦義澄、和田義盛等、三浦一族は弓上手として知られていました。
以来、笠懸は三浦一族のお家芸として長く伝えられてきており、昭和54年(第1回)に我が国初めての恒例行事として復活し、本年に至っております。
三浦市ホームページより
『流鏑馬』は直線の馬場を全力疾走させながら、3つの的を連続で射抜く馬術。
対して『笠懸』は、的の配置に左右・高低・大小と変化をつけた的を、馬を疾走させつつ射抜きます。
神事
射手の安全を土地の神々に祈願します。
射手は、大日本弓馬会・武田流の皆さまです。
矢代振
矢代振(やしろぶり)は、参加する弓士全員の矢代矢を背中に背負い、一本ずつ矢代枕の上に順番に並べ弓を引く順番を決める儀式です。
遠笠懸








これが通常サイズの的でしょうか。
にしても流鏑馬よりは小さそう。
小笠懸




足元にある上に、二回りほど小さい的です。
これは当てるの難しいでしょうね(;’∀’)
笠懸のまとめ動画です。
まとめ
騎射を近距離で見られたのはいい経験でした。
鎌倉時代は、こんな競技が流行っていたんですねえ。
『流鏑馬』『犬追物』も、いつか自分の目で確かめてみたいですね。
まだまだ伝統芸能の奥は深いようです。
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