日本講談協会定席10/24~艱難辛苦を乗り越えて…

2020年10月24日
お江戸上野広小路亭で開催された「日本講談協会定席」を拝聴。
一ヶ月に2日開催される定席。

開催は土曜・日曜が基本ですが、金曜・土曜の月もあるようです。
定席が13:00開演、その前に前座さんの勉強会が開催されております。

演目

神田鯉花  海賊退治(笹野名槍伝)
神田松麻呂 熱湯風呂(寛永宮本武蔵伝)
神田紅佳  太閤と曽呂利(太閤記)
神田真紅  中村屋「インドカレー」物語
神田紫   円山応挙の幽霊画
神田松鯉  雁風呂由来(水戸黄門記)
仲入り
神田鯉風  谷風の情け相撲
神田陽子  二度目の清書(赤穂義士銘々伝)

鯉花さん・海賊退治

当日の場内アナウンスも兼任されていた鯉花さん。
海賊退治の前半でした。
刀がぶつかる「チャンチャリン」という擬音語が印象に残ります。

松麻呂さん・熱湯風呂

熱湯風呂の後半部分です。
ある道場に着いた武蔵は接待を受けお風呂へ。
しかし、お風呂は見る見るうちに高温に。そして扉を釘で打ち付けられ絶体絶命。

この道場主は「白倉源五右衛門」武蔵を仇と狙っていた剣客でした。
絶体絶命の武蔵でしたが、危機一髪窮地を脱出。
熊手で戦い、見事返り討ちにするのでした。
全身火傷をしていた武蔵でしたが…

紅佳さん・太閤と曽呂利

別題「秀吉の歌修業」
題名の曽呂利新左衛門は豊臣秀吉の御伽衆として仕えていたと言われている人物で、落語家の始祖とも。
堺で刀の鞘を作っていた職人で、鞘に刀が「そろり」と合うのでこの名がついたそうです。

天下人となった秀吉ですが、元々農民であったため和歌には素養がありませんでした。
ある日公家に和歌を詠むように勧められた秀吉は、自分が猿に似ていると言われていた事を思い出し、猿丸太夫の句「奥山に紅葉踏み分けなく鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」から、「奥山に紅葉踏み分けなく蛍」と苦し紛れに上の句を。

下の句を…と言う公家でしたが、続きはまた明日。と秀吉はその場を去ります。
帰った秀吉は下の句をどうしようかと悩んでいましたが、曽呂利新左衛門が策を授けました。

翌日、にやにや顔の公家に呼び止められた秀吉。
「蛍は鳴くか?」との質問に、万葉集の一説を以って回答。
更に、下の句を「しかとも見えず杣(そま)の灯」と読みました。
これには公家も平伏したそうです。

これが教訓となり、和歌の修業も始めた秀吉。
後に「露と落ち露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」という見事な辞世の句を残しております。

真紅さん・中村屋物語

新宿中村屋が1927年(昭和2年)に、当時日本で珍しかった本場インド式のカリーを販売し成功するまでの物語です。

カレー好きとして知られる真紅さん。
今日は一段と目が輝いているような気がしました。

創業者の相馬愛蔵は、インドの革命家ラス・ビハリ・ボースを匿っていた事から、「明治・大正の天野屋利兵衛」と呼ばれている人格者でした。
このボースが日本に本格的なインド式カリーを伝えた人物です。

ボースは、逃亡中の連絡係を務めていた、愛蔵の娘俊子と結婚。
後に日本へ帰化しております。
愛蔵から結婚を勧められた俊子は、「お父様の良きように」「一緒になれなかったら川に身を投げる」といった、古典講談のような捨て台詞を言ったとか言わなかったとか。

第一次世界大戦終結後、日英同盟は解消。ボースは自由の身に。
当時新宿へは百貨店が攻勢をしかけており、中村屋の売り上げも例外なく落ちておりましたが、ボースの発案でインド式カリーを発売。
米や、鶏にこだわったカリーは飛ぶように売れたそうです。

紫さん・円山応挙の幽霊画

落語にも「応挙の幽霊」という滑稽噺のネタがありますが、
講談は人情噺です。

長崎に滞在していた応挙は巴楼という遊郭に。
幽霊のような「薄雲太夫」、厄介者扱いされてました。
人さらいにあった幼少期の話をした薄雲は、形見として唐錦の布の切れ端を応挙に。
そんな薄雲の下絵を応挙は描きましたが、まもなく薄雲は亡くなってしまいました。

厄介払いをした遊郭の主に変わって、永代供養をした応挙。
薄雲の親を探して旅を続けておりましたが、結局出会えませんでした。

故郷・京に帰り幼馴染の甚兵衛夫婦を尋ねた応挙。
借金まみれになってしまっており夜逃げを考えていましたが、
応挙の幽霊画を飾る事で返済。その過程で驚くべきことがわかります…

松鯉先生・雁風呂由来

中納言が隠居すると「黄門」になるそうです。
ですが、時代劇の影響か世間では水戸のご老公が黄門という事になってますね。

歴代のご老公の中で、石坂浩二さんは史実に実説に近かったことで有名です(初期はヒゲがなかった、水戸中納言を拝命するところから話が始まっているなど)
視聴者からのクレームにより路線変更、降板となったのはとても残念でした。

さて、今回のお話は実説の「水戸黄門記」須賀川(福島県)での一幕です。
ある茶屋で衝立の絵に気がついたご老公。
松に雁(かりがね)という構成を不思議に思いましたが、そこにいた商人が由来を知っているそうなので、教えてもらう事にしました。

話を聴いて得心したご老公。
この話をしたのが二代目淀屋辰五郎の成れの果てだったため、後ろ盾になり、辰五郎は大坂へ復帰するのでした。

途中横道にそれていたのですが、
小泉信三と息子の新吉、古今亭志ん生とのお話がとても印象的。
新吉は第二次大戦中戦死をしているのですが、出征の際の父信三との会話「来世子供を授かるとしたらお前を子供として…」と「来世生まれるとしたら父上の子供として…」は涙を誘いました。

仲入り
鯉風さん・谷風の情け相撲

大相撲11月場所は例年九州で行われますが、2020年はコロナ対策として両国で開催。
まだまだ影響は大きいです。

谷風の情け相撲は、落語の定席でも比較的読まれるネタですね。
落語では「佐野山」として有名です。

十両どん尻にいた佐野山は、横綱谷風と一番取る事に。
父の看病につきっきりだった谷風が負けようという、横綱の恩情でした。
この一番で勝ち観客・御贔屓・谷風から莫大なご祝儀をもらった佐野山は、これを以って引退。
無事父を看取る事ができました。

見せ場を作り、佐野山を投げ飛ばしたと見せかけて勇み足で負けた谷風。
後年、「こんなに取りにくい相撲はなかった」と話していたそうです。

陽子さん・二度目の清書

二度目の清書は昔の題名で、現在は「大石の妻子別れ」ともいうそうです。
「義士銘々伝」とは言いながら、登場しないかわいそうな義士もいるそうで…

講談界全体が伯山人気にあやかっており、Twitterも始められた陽子先生。
私も伯山さんがいなかったらこれだけ早く講談を聴くことはなかっただろうな。と考えると感慨深いですね。

亡き君主、浅野内匠頭の仇討を決めた大石内蔵助ですが、
野望を隠すため茶太の太夫を身受けするという暴挙に。

怒った妻のお石と離縁、母親・幼い子供も一緒にお石の実家へ帰してしまいました。
内蔵助は文をしたため、お石の父石束源五兵衛へ「心中よしなに御賢察を」との口上を添えるようにと、足軽の寺坂吉右衛門へ伝えます…

高座に上がってから、4度も客席から携帯電話の音が!
しかし見事に立て直した後のクライマックス、寺坂の口上(討ち入りの様子)はお見事でした!

まとめ

タイトルの「艱難辛苦を乗り越えて~」は陽子先生が毎回冒頭で謳い文句。
今回は携帯電話の妨害にも負けず見事な高座だったので、こちらにしました。

いろんな意味で、今日は感動したなあ。
私含め何名か感極まっておられた方がいたのも頷ける高座でした。

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