西尾市を歩く③~義理と人情の町

2022年7月3日
愛知県西尾市・上横須賀駅周辺を引き続き歩いています。
今回が最終回です。

信道山 源徳寺

概要

 清水次郎長が建立したといわれる「吉良仁吉」の墓所があります 幕末の侠客「吉良の仁吉」は、18歳から3年間、清水次郎長の下で過ごし、後にわずかな恩に報いるため戦に挑み、28歳の若さで亡くなります。義理と人情の仁吉といわれるゆえんです。
源徳寺にある仁吉の一周忌に清水次郎長が建立したといわれている墓には、没後約150年たった今でも全国よりファンが線香を手向けていきます。 毎年6月の第1日曜日には吉良の仁吉を偲んで「仁吉まつり」が行われます。 他には、仁吉が使ったと伝えられている三度笠などの遺品も残されています

西尾市観光協会ホームページより

境内の写真

本堂

吉良仁吉の墓

 本名「太田仁吉」天保十年(1839)一月一日三州吉良横須賀御坊屋敷内に「太田善兵衛」の長男として生まれる、祖父「太田佐治兵衛」は江戸の武士故あって浪人となり後吉良に流つき大小を捨て当山の寺男となる。

 「吉良仁吉」は通称である、身長六尺近く(180センチ)体重二十四貫(96キロ)横笛を好みよく近くの矢作古川で一人笛を吹くこともあった、性来無口で丸顔「だんまり地蔵」と仇名がついていた。又相撲も強く草相撲の大関であったと聞き伝えられている。

 その相撲に勝ったため喧嘩となり「寺津の間之助」の世話になったこれが侠客になる第一歩であった。
 後、「間之助」の紹介で「清水次郎長」に三年厄介になり兄弟分の盃を交わすことになった。清水からの帰郷後「吉良一家」をかまえ西三河一帯の縄張りを預かった「仁吉」二十六才。

 侠客とは義理と人情をわきまえ義理の為なら身命を惜まずおきてを守り「男の中の男」と言われたものである。

 年改まって慶応二年(1866)「伊勢・神戸の長吉」が「桑名の穴太徳」に荒神山(庚申ヶ原)の縄張りを奪われ「仁吉」に助成を求めた。しかし三ヶ月前に嫁となった「キク」は「穴太徳」の養女である。義理のため女房と離縁し「長吉」に助成することになった。清水一家の中主だった「大政」「小政」をはじめ十八人衆が助成する事になり総勢二十四人が寺津港より荒神山へ向けて出船した。

 喧嘩は仁吉が勝利となったが「仁吉」「法院大五郎」幸太郎は戦死した時行年二十八才
 慶応二年四月八日(1867年)仁吉の一周忌に「次郎長」が「仁吉」の任侠を忍んで建立したものである。

現地案内板より

御朱印

女性のご住職さんに直書き頂きました。
祈祷料300円

アクセス

信道山 源徳寺

名古屋鉄道西尾線 上横須賀駅より徒歩10分

コメント

タイトルとURLをコピーしました