沼津を歩く①~広がれ!ガイドさんの輪!阿野全成親子が眠る地・大泉寺

2023年2月25日
伊豆半島から沼津市へ移動しました。

沼津駅より二駅の原駅を歩いていきます。
近辺は『東海道・駿州原宿跡』になります。

士詠山 大泉寺

 大泉寺は約850年の歴史を持ち、本尊は聖観世音菩薩。全成・時元父子の墓や阿野氏の館跡に加え、公暁の位牌や「首掛けの松」「銀杏観音」といった伝説もあるお寺です。

※駿河国阿野庄は沼津市阿野庄は現在の沼津市今沢から富士市吉原辺り。

拝受資料より

詳細は大泉寺ホームページにて。

境内の写真

山門

元々阿野氏館だった関係上、山門は道路沿いではなく小道を入った所にあります。
参道が少し曲がっているのですが、虎口で敵を防ぐ意味もあったのでしょうね。

本堂

この参道の先が本堂の中心ではなく
実際の中心はもう少し右側です。

理由は屋根裏部屋で、賭博が行われていたこと時期があったとかなかったとか。
そういったことが原因なのだそうです。

阿野全成・時元の墓

沼津市指定史跡 伝 阿野全成あのぜんじょう時元ときもと

 阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡流源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常盤御前です。

平治の乱で義朝は敗死し、常盤御前は今若、乙若、牛若の三児を連れて逃れ、後に助命されました。今若は山城国の醍醐寺に預けられ出家して全成と改名しましたが、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師と呼ばれました。

 治承四年(1180)、頼朝が挙兵するや、全成はひそかに寺を抜け出し、修行をよそおいながら頼朝のもとに参じました。頼朝は、その志に涙して感動したといわれます。後に駿河国阿野庄(現在の沼津市東原・今沢から植田・富士市境付近まで)を与えられて井出に居館を構えたとされ、大泉寺がその館跡であると言われています。

 頼朝の死後、健仁三年(1203)五月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年六月二十三日、下野の国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。

 その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)二月十一日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵をさしむけ、交戦十日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。

 墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。

現地案内板より 沼津市教育委員会

阿野全成の墓には、上記の通り首のみが埋葬されています。
胴体は処刑が行われた栃木県益子町で供養されたそうです。

『首掛の松』根跡

阿野全成の首が掛かっていたと言われている松の年輪(本物)です。
益子町(栃木県)で斬首された全成の首が飛んできた伝説もあるそうです。

3枚目は、当時松が植えられていた場所にある記念碑。

お地蔵さんと干支

こういう遊び心もいいですね!
帽子は、近所の保育園の保育士さん手作りとのこと。

『鎌倉殿の13人』登場人物と阿野全成名場面のゴムはんこ

すべてご住職の手作りです。
これだけのものを創作される意欲と芸術性。
白眉ものの作品だと思います。

阿野氏館跡の土塁

阿野氏の館は平城だったそうで
この土塁と竹藪でほぼ見えなくなります。
これは相手からしたら攻めにくいでしょうね。

御朱印

通常の御朱印+阿野全成のゴムはんこを拝受しました。
祈祷料は併せて1000円です。

まとめ

実は当寺の近所ある興国寺城が当初の目的だったのですが
駅前の案内板にピンときて先にこちらへ行くことにしました。

伺ってビックリ!何とボランティアガイドさんから
ご案内と阿野全成・時元親子についての詳しい説明つき!
歴史好きとしてはめちゃくちゃ有難かったです。

2022年『鎌倉殿の13人』放送中は観光客も増え
境内もにぎわっていたそうです。

お話を伺ったところ、放送前から情報発信をされていたそうで
その積み重ねが花開いたんでしょうね。

ガイドさんは現役を引退?された年配の方だったので
全国のお寺が模倣できるシステムではないかなあと感じました。
現役を引退した方がガイドになる→親切なお寺だとSNSで拡散される→街おこしにもつながる。

もちろんガイドの方は勉強が必要ですが、案内する名目で外出する理由になるし、参拝者とも交流できる。 これなら、お寺が地域の憩いの場になるでしょう。
メンタル疾患の患者さんの就労支援としても使えるかもしれないですね。

ご住職のお人柄、ガイドさんの熱量。
人の温かさに触れたひと時でした。

アクセス

士詠山 大泉寺(阿野氏館跡)

住所:静岡県沼津市井出744

JR東海道線 原駅より徒歩約30分

コメント

タイトルとURLをコピーしました