越生町を走る①~悲運の英傑・渋沢平九郎

2022年9月10日
埼玉県入間郡越生町へ行ってきました。
今回、次回と渋沢平九郎ゆかりの場所に行きます。

渋沢平九郎自決の地

 慶応四年(1868)五月二十三日、飯能で官軍に敗れた一人の振武軍しんぶぐん兵士が、顔振峠かあぶりとうげから黒山村へ下りてきた。官軍の斥候隊と遭遇した兵士は、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決した。首は越生今市で晒され、骸は全洞院ぜんとういんに葬られた。今市では、横田佐兵衛と島野喜兵衛が、密かに首を法恩寺ほうおんじに埋葬した。黒山の村人たちは、その壮絶な最期を讃え、「脱走の勇士様」(だっそ様)と崇めた。

 やがて、この兵士は振武軍頭取尾高惇忠おだかじゅんちゅう(後に初代富岡製糸場長)の弟平九郎、享年二十二歳であったことが判明した。平九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で、渡欧する栄一の見立て養子となり、渋沢姓を名乗っていた。

 「自刃岩」の傍らの茱萸ぐみは、平九郎の血の色を宿す実をつけると言われ、「平九郎ぐみ」と呼ばれている。

現地案内板より

自刃岩

川の傍らにあります。
平九郎は仲間と共に、背水の陣を敷いて官軍と戦っていたのでしょうか。

全洞院

 岩松山全洞院がんしょうざんぜんとういん龍ヶ谷たつがやの曹洞宗龍隠寺りゅうおんじの末寺で、開山は龍隠寺第六世喜州全欣きしゅうぜんきん、第四十四世洞獄石瑞とうがくせきたんの中興と伝わる。当地黒山は中世以来、修験しゅげん先達せんだつ山本坊やまもとぼうの勢力下にあった。「全東院」「善東院」と書かれた例もあり、元々は山本坊の本坊、熊野神社の東に開かれた修験寺院であったと推定される。

 (中略)ここからほど近い顔振かあぶり川岸に、彼(平九郎)が座して割腹した「自刃岩」がある。首を刎ねられて今市(現生越市街地)に晒され、骸は全洞院に葬られた。住職は白木位牌に「大道即了居士 俗名知らず、江戸のお方に候、黒山村にて討死」と記した。村人たちは壮絶な最期を遂げた青年を「脱走様」と崇め、命日には空腹を思いやり、墓前にしゃもじを供えた。

 渋沢平九郎は旧姓尾高おだか、諱は昌忠。榛沢郡はんざわぐん下手計しもてばか村(現深谷市)出身で、渋沢栄一の妻千代の弟である。栄一が渡欧する際に見立養子みたてようしとなり渋沢姓を名乗っていた。享年二十二歳。

 なお、本堂の前には、一時当寺の住職を務めていた、俳人松野自得まつのじとくの「白梅のある夜飛びゆき星となる」の句碑がある。

現地案内板より

境内の写真

本堂

無住職のようで、少し朽ち始めてます。

渋沢平九郎 墓への道

渋沢平九郎の墓

 明治七年(1874)年十二月、渋沢平九郎の骸は、法恩寺に埋葬されていた首とともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬された。その後、この墓石が建てられた。

 碑銘は次のとおりである。
 (右)「明治元歳五月廿三日為所事戦 不克屠腹死時貮拾貮」
 (左)有志建之
 (裏)「発起人 東京府下 大村昇 熊谷義一 芝崎義行 金子一郎 黒岩村 横田佐平 世話人 大久保村 岡野治三郎 栗山村 浅見四郎」

 渋沢栄一は、明治三十二年六月二十五日と四十五年四月十四日の二度、墓参に訪れている。

現地案内板より

高台からの景色

御朱印

全洞院での御朱印は終了しているため
龍隠寺にて拝受できます。
祈祷料300円。

アクセス

全洞院

住所:埼玉県入間郡越生町黒山674

越生駅よりバス・黒山停留所下車 徒歩5分
(渋沢平九郎自刃の地へも徒歩5分程度)

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