越生町を走る②~渋沢平九郎の首塚・法恩寺

2022年9月10日
埼玉県入間郡越生町を自転車で走っています。

松渓山 法恩寺

寺伝『法恩寺年譜ほうおんじねんぷ』は、「松渓山しょうけいざん法恩寺は天平てんぴょう十年(738)に東国遊行中の行基ぎょうきが開創した。その後、荒廃して寺山と呼ばれていた。越生氏一族の倉田基行くらたもとゆき夫妻が、現れ来た天竺てんじく僧とともに、紫雲棚引く古井戸の中から、行基が奉じた五尊の仏像を見つけた。夫妻は草堂に仏像を祀り、出家して瑞光坊ずいこうぼう妙泉尼みょうせんにと名乗った。建久けんきゅう元年(1190)、この地を訪れた源頼朝は二人の話に感銘を受け、土地と田畑を寄進し、基行の甥の越生次郎家行おごせじろういえゆきの命じて堂塔伽藍どうとうがらんを建立させた」と伝える。小字寺井には、金明水きんめいすい銀明水ぎんめいすいとよばれる湧水が現存している。室町時代の応永五年(1398)に栄曇が入山し、それまでの天台宗を真言宗に改宗して中興開山した。

 天正十九年(1591)には、徳川家康から寺領として朱印地二十石が与えられ、江戸時代には新義真言宗の僧侶養成機関である関東十一談林の一つに列し、住職が将軍に直接拝謁できる「独礼」を許された高い格式を持つ寺院となった。

 「絹本着色荒野けんぽんちゃくしょくこうや丹生明神像にうみょうじんぞう」「絹本着色釈迦三尊及阿難迦葉像しゃかさんぞんおよびあなんかしょうぞう」(国指定重要文化財)、「絹本着色両界曼荼羅りょうかいまんだら」「金銅装設相箱こんどうそうせっぽうばこ及び戒体箱かいたいばこ」(県指定文化財)、「木造大日如来坐像もくぞうだいにちにょらいざぞう」「法恩寺年譜」(町指定文化財)など、様々な宝物が伝存している。

現地案内板より

境内の写真

山門

鐘楼

本堂

渋沢平九郎の首塚

今市村の高札前に晒された平九郎の首は、今市村の島野喜兵衛と黒岩村の横田佐平が密かに法恩寺に埋葬しました。

 昭和39年(1964)、町内の関係諸団体によって、この碑が建立されました。

 題字は渋沢栄一の甥の渋沢元治(工学博士・日本学士院会員)で、裏面は、自決の地に立つ碑と同じく、深谷の山口平八によるものです。

 「澁澤平九郎埋首之碑」
明治戊辰の年五月二十三日新武軍は義を唱えて奮戦ついに衆寡敵しゅうかてきせず飯能天覧山麓に敗る参謀澁澤平九郎ひとり黒山に到り藝藩の諸兵に遭遇両三を屠り従容として自決す享年僅かに二十有二その胴体は全洞院に葬られ首級しゅきゅうは別にさらされしが里人これを憐れみ密かに法恩寺に埋むすなわち此の地にして後日おくびさまと稱されて郷人の信仰を厚くせり平九郎名は昌忠尾高惇忠の末弟にして武蔵国下手計村に生まる渋澤栄一の渡欧に際しその見立て養子となり克く席を果たすとともに栄一大成の渊源えんげんをなせり平九郎のごとき真に説に死したる文武両道のケツしというべく卓然たる獅子の風格は後世の範となすに足る今慈こんじ同士相謀あいはかり埋首の碑を建てて英霊を慰むると共にその史實を後昆も傳えんとす文を余に嘱らせらるるに當り梗概こうがいを述ぶるが此の如し

昭和三十九年甲辰年秋彼岸建之
 埼玉懸文化財専門調査委員 山口平八撰書

頒布資料より

法恩殿・寺務所

御朱印

直書きいただきました。
祈祷料300円

アクセス

松渓山 法恩寺

住所:埼玉県入間郡越生町越生704

JR八高線/東武越生線 越生駅より徒歩4分

高札場跡

渋沢平九郎の首が晒されていた場所です。
この後、法恩寺→谷中霊園へ改葬されています。

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