越生町を走る③~太田道真・道灌親子が眠る!?龍隠寺

2022年9月10日
埼玉県入間郡越生町を引き続き自転車で走ってます。
今回越生に行った最大の目的、太田道真・道灌親子の墓へ。

長昌山 龍穏寺

『りゅうおんじ』と読みます。
曹洞宗の別格(関東三大)寺院です。

御縁起

 当寺は、すでに奈良平安時代に山岳仏教として開かれ、山伏やえんたちによって保たれていたが、時代の変遷とともに衰微し、永享二年(1430)に至り、足利六代将軍義教が、鎌倉時代以降関東における敵味方の戦死者の菩提を弔うため、関東管領上杉持朝もちとも(河越城主)に命じ、義教が日頃帰依せられる無極むごく禅師(児玉党越生氏出身)を請し、開山第一世として関東曹洞宗第一の道場とした。のち、うち続く兵乱のために荒廃し、第三世泰叟たいそう禅師に至って、太田道真・道灌の父子共に義教の意思を継承し、また日頃から帰依せられる泰叟和尚のために再建した。

 以後天下の鬼道場として一世を風靡し、多くの修行僧の魂胆を寒からしめた。かかる故に天正十八年(1590)豊臣秀吉より百石の御朱印(寺領山林約二百町歩)の寄進を受け、慶長十七年(1612)徳川家康より曹洞宗法度の制定を命ぜられ、関東三大寺『龍隠寺、大中寺(栃木県)、総寧寺(千葉県)』の筆頭として寛永十三年(1636)幕府の寺社奉行に任ぜられ、格式十万石をもって遇せられ、江戸に別宅(現在の東京南麻布・イラン大使館)を有した。
住職は幕府将軍によって決定せられ、大本山永平寺(福井県)に自動的に昇住した。現在末寺七十余ヶ寺は全国に拡がっている。しかるに惜しいかな、明治維新の寺領没収・廃仏毀釈にあい、従来の特権は召し上げられ、その上大正二年(1913)諸堂焼失の悲運にあい、昔日の面影を全く失うに至った。

 しかし、近年に至って、ささやかながら徐々に復興の兆しが見えつつあります。かつて読売新聞埼玉版の「武蔵野は生きている」(武者小路実篤監修)に次の如く紹介されました。「武蔵野のはてる所太田道灌公静かにねむる」と。同館は現在の神奈川県伊勢原市にて、父より先だって文明十八年(1486年)に暗殺せられましたが、晩年の父道真によって当時に分骨せられ、風化した五輪の塔となって武蔵野の風に吹かれています。法名は「香月院殿春苑道灌こうげついんでんしゅんえんどうかん大居士」

 なお、当時はかくの如く名刹の寺ではありますが、世間にはあまり知られておりません。否、知られない方がいいのかもしれません。禅の心のふるさととして、この静寂の境を残しておきたいからです。

頒布資料より

MAP

①冠木門(上記の写真)
②総門
③山門
④熊野神社
⑤経蔵
⑥鐘楼
⑦池
⑧本堂
⑨太田道灌・道真公墓
出典:龍隠寺ホームページ

境内の写真

総門

参道

山門

本堂への参道

熊野神社

背面・壁面の彫刻が素晴らしいです。
一見の価値あり!!

経蔵

鐘楼

本堂

太田道真・道灌公の墓

 太田道灌は、永享えいきょう四年(1432)扇谷上杉家の家宰太田道真の嫡男として生まれた。

 当時の関東は、関東管領かんとうかんれい古河公方こがくぼう堀越ほりごえ公方などの地方政権が分立する混乱状況にあった。道灌は二十四歳で家督を嗣ぎ、長禄ちょうろく元年(1457)に築城した江戸城、河越(川越)城、岩付(岩槻)城を拠点に、各地を転戦して勝利し、関東の安定に尽くした。

 しかし、その戦功と高潔な人柄は、かえって主君上杉定正さだまさの不興を買い、文明十八年(1468)七月、相州糟屋かすや(現神奈川県伊勢原市の定正邸で謀殺された。越生の自得軒じとくけんで悲報に触れた父道真は、明応めいおう元年(1492)八十一歳で病没当寺に葬られた。

 なお、道灌の墓塔は、終焉の地、伊勢原市の大慈寺だいじじ洞昌院とうしょういん、大竹の子孫が鎌倉に開基した英勝寺えいしょうじにもある。

現地案内板より

江戸城の石垣

御朱印

お昼時にも関わらずご対応いただきました。
祈祷料300円

ご住職とは、
・道真と道灌の墓に入っているもの
・街を上げて太田道灌を大河ドラマに誘致する活動
 →出自でわかっていないことが多い(母親・出身など)
・太田道灌公の銅像・石像が各地に点在する謎
・落語『道灌』について
・大正時代、本堂が失火により焼失。
 資料がなくなってしまったこと。

など、30分ほどお話をさせていただきました。

アクセス

長昌山 龍穏寺

住所:埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452

越生駅よりバス 『上大満』停留所下車徒歩40分程度

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