引き続き、11月6日に大阪を歩いたレポートです。
史跡を含め写真を掲載していきます。
↑の写真は難波橋です。
露天神社
『つゆのてんじんしゃ』と読みます。通称は『お初天神』
落語初天神の舞台ではなく、お初徳兵衛『曽根崎心中』の舞台です。
お初徳兵衛にちなみ、恋愛成就の神社として知られているそうです。
御由緒
社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。
露天神社ホームページより
境内の写真
参道
拝殿
境内社
境内社の『水天宮』と『金刀比羅宮』です。
こちらも境内社『玉津稲荷』です。
神牛舎
いわゆる『撫で牛』ですね。
『曽根崎心中』ゆかりの碑
干支の人形
各年、干支の人形が奉納されています。
御朱印
書置きと直書きがあるようです。
折角なので直書きをしていただきました。初穂料500円
アクセス
大阪メトロ谷町線 東梅田駅徒歩2分
大阪メトロ御堂筋線 梅田駅徒歩3分
JR東西線 北新地駅駅徒歩3分
木村長門守重成表忠碑
大阪府大阪市北区中之島公園にある木村重成表忠碑。
wikipediaより
かつてこの地にあった豊國神社内に第6代大阪府知事西村捨三によって立てられたが、後に同神社が大坂城内へ移転した際、そのまま残された。
木村重成は豊臣家末期の重臣。
大阪冬の陣(1614年)では後藤又兵衛とともに活躍、全国に名前を広げます。
大阪夏の陣(1615年)では豊臣家の主力として参加しましたが、『八尾・若江の戦い』にて戦死しました。
※木村重成のお墓は八尾市にあるそうです。
アクセス
京阪電鉄 なにわ橋駅徒歩1分
大阪天満宮
こちらが落語『初天神』の舞台です。
当日は七五三。家族連れでにぎわってました。
裏口を出てすぐの場所に、天満天神繫昌亭があります。
御由緒
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。
平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。
その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。
これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。
以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。
大阪天満宮ホームページより
境内の写真
拝殿
本殿
天満天神の水
大将軍社
白米大神
その他末社
祖霊社
飛び地にある祖霊社。
脇に『髙坐招魂社』がありました。
上方落語協会と関係が深そうですね。
御朱印
初穂料500円。
直書きしていただきました。
アクセス
大阪メトロ谷町線・境筋線 南森町駅徒歩5分
JR東西線 大阪天満宮駅徒歩2分
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