2023年5月4日
千葉県佐倉市臼井へ行ってきました。
ご当地臼井は、伝説の関取・雷電為右衛門終焉の地です。
妙覚寺

御縁起
印旛郡誌には「臼井台町字長谷津にあり長谷山と號す。日蓮宗妙満寺派にして千葉郡濱野村本行寺末なり。本尊を釈迦牟尼佛とす。長享2年(1488)の創立。明治28年40世日持(寺誌では41世)の時、布田薬師の分身を請いて安置す。」とある。
開基は心了院日泰上人。日泰上人は、土気城主酒井定隆の領地七里四方をすべて法華寺院に改宗させたことで有名。本山妙満寺第16世。日徳上人代に無住廃寺となっていた淨行寺(※)を妙覚寺の管轄の下に合併し、現在に至る。昭和48年には地域の子育て支援のため、境内に社会福祉法人日輪福祉会すみれ保育園が設立された。
平成7年には立教開宗750年の記念事業として本堂と仏像の修繕事業が、また、令和元年には宗祖降誕800年慶讃事業として庫裏・客殿改修工事が竣工した。※淨行寺本覚山淨行寺は、印旛郡誌に「臼井台町字寺前にあり本覚山と云う。顕本法華宗にして京都妙満寺末なり。永徳中日什上人の開く所なり。旧臼井城大手門内にあり。今其の地を淨行寺古屋敷と呼ぶ。天正12年5月城主原式部大輔胤栄之を移して造営すと云う。胤栄の族越前守某宗祖の木造、西行の石像、仏経十巻、机十脚、仏舎利一粒を寄付す。天明中15世日要の時、火災あり。本堂、庫裏悉焼失す。嘉永年20世の代日蓮の像及仏舎利を会津の妙法寺(日什の開基)に寄付し、西行の像は臼井村相川氏に譲ると云う。
明治27年22世の住持文應示寂し以来無住にして堂宇間口五間、奥行五間頽廃恰も廃寺に等し。寺内に雷電爲右衞門の墓あり。爲右衞門は信州の人。寛政年間の力士なり。その妻某は臼井村の産なりしを以て晩年老を此地に養へりと云う。」とある。
妙覚寺ホームページより抜粋
境内の写真
本堂



雷電為右衛門顕彰碑


雷電為右衛門顕彰碑
江戸時代の寛政から文化年間にかけて無敵を謳われた名大関雷電為右衛門(1767~1825)の等身大画像に佐久間象山(1811~64)筆の十一文字を配した巨大の顕彰碑が妙覚寺境内にあります。雷電歿後百五十三年の命日に因んで建立されたものです。
佐倉・雷電顕彰会




雷電 為右衛門
相撲史上不滅の足跡を残した古今の最強力士
幼名:関 太郎吉
生誕:明和4年(1767年)1月、信州小県郡大石村(現長野県東部町大石)
父・半右衛門(28歳)母・けん(19歳)
土俵暦
石尊の辻入門:天明元年(1781年)小県郡長瀬村(現丸子町)の石尊の辻上原源五右衛門の相撲道場の門弟として学問・相撲を修行、門下秀才4人組の1人となり、後年、巡業記録「諸国相撲和帳」などを世に残す。
四股名:天明8年9月雲州(島根県)松江藩松平不昧公の抱え力士となり、寛政二年(1790年)11月江戸本場所23歳
初出場:28歳以来、16年間2場所横関を張る。
大関:21年間34場所 254勝10敗引分・預り・無勝負など、勝率96.2パーセント
成績:最盛時の身長六尺五寸(1メートル97センチ)体重45貫(168.7キロ)
家族:妻おはん(八重)は、ここ臼井の旧浄行寺(現妙覚寺と合併)の檀家飯田家の甘酒茶屋「天狗」の看板娘であった。結婚後2人の間に女児1人をもうけるが幼くして亡くす。
晩年:引退後、妻の郷里ここ臼井で静かに過ごした。稲荷祠・石段・石橋の寄附。遺品も多く残されている。
歿年月:文政8年2月11日(戒名 雷聲院釈関高為輪信士)
碑:雷電153回の命日に因んで建立された。以後毎年2月11日の命日に雷電祭りが催されている。
佐倉雷電顕彰会
御首題

お昼時にも関わらずご対応いただきありがとうございました。
祈祷料は『お気持ちで』とのことです。
アクセス
住所:〒285-0866 千葉県佐倉市臼井台1201
京成電鉄 京成臼井駅より徒歩20分
雷電為右衛門夫婦と一女の墓


雷電の墓も妙覚寺境内ですが、少し離れた場所にあります。
雷電爲右衛門夫妻と一女の墓
雷電爲右衛門は文政八年(1825)二月十一日没、五十九才(数え)。雷電夫人のおはんは文政十年一月二十日没、六十一才。二人の間に一女(名不詳)があり寛政十年(1798)七月八日、幼く没していることが墓石からうかがわれます。全国に四ヶ所ある「雷電の墓」のうち、家族が眠るのはここだけです。
ここはもともと浄行寺(日蓮宗)の墓地でおはんの生家の菩提寺だったところです。
アクセス
住所:〒285-0866 千葉県佐倉市臼井台
京成電鉄 京成臼井駅より徒歩15分程度
おまけ
妙覚寺周辺で出会った柴犬のベン君です。
飼い主さんによると、この地域のアイドルなのでそうです。
年齢は3歳。とても人懐っこくてかわいかったです(´▽`)
※写真掲載の許諾をいただいてます。




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