佐倉を歩く②~上杉謙信最大の敗戦・臼井城跡

2023年5月4日
千葉県佐倉市に来ています。
今回は、戦国時代の合戦舞台・臼井城跡へ伺います。

臼井城跡/臼井城址公園

概要

 千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(十四世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は十五世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残している。

 戦国時代の末期には原氏が城主であったが、天正八年(1590)小田原落城により、千葉氏とともに滅んだ。以後酒井家次三万石の居城となって、慶長九年(1604)の転封まで使用された。太田道灌・上杉謙信の軍との攻防戦は有名である。(臼井城の戦い

 昭和六十二年三年 佐倉市教育委員会

名勝・臼井八景 城嶺夕照

 いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡

 永久二年(1114)に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、十六代臼井久胤までの約四百五十年間、臼井氏は長くこの地の領主であった。その後臼井城は原氏や徳川家康の部将酒井家次の居城となったが、文禄三年(1593)の火事によって、この大地にあった城廓は焼失してしまった。「臼井八景」は、それからおよそ百年後の元禄期に作られたものである。臼井久胤の玄孫にあたる「臼井八景」の作者は、夕映えの美しい城跡の嶺に立って、自分の祖先が臼井城の城主であった頃の遠い昔を偲びながら、感慨深く前掲の歌を作り上げたものである。

 城跡の近くには、往時の土塁や空堀の一部が今でも昔のままに残っている。本丸跡の発掘調査により、十五世紀の中国・明時代の陶磁器の破片や城が火事になった時の焼け米などが発見されている。

 北側の山据には、第六代城主臼井興胤が1339年に創建した瑞湖山円応寺がある。また空堀の近くには、文明十一年(1479)に臼井城を攻めて討死した太田道灌の弟・図書の墓がある。

MAP

城址の写真

二の丸(Ⅱ郭)

土橋

 土橋は、空堀によって区切られたⅠ郭の坂虎口(出入口)とⅡ郭を結ぶ通路の役目を果たしていました。

 土橋の幅を狭くすることで、一度に多勢の敵が渡れなくなります。さらに、曲った坂をつけて敵の進む速度を低下させ、北にあるⅠ郭の土塁上から側面攻撃を受けやすくするように工夫されています。

 現在は、盛土によって覆い、保存しております。

空堀

本丸(Ⅰ郭)

本丸がある高台からは、印旛沼が一望できます。

本丸虎口/石垣

ちょっと見にくいですが、写真右上に見えるのが石垣です。

腰曲輪

搦手

太田図書の墓/三の丸

太田図書の墓

 室町時代の中期、千葉氏一族は、古河公方と管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、二派に分かれて争った。

 文明十年(1478)十二月、上杉方の太田道灌は、公方方の千葉孝胤のりたねを境根原の(松戸市小金)戦いで敗り、敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。
翌文明十一年(1479)正月、道灌の弟太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備があまりに堅固なため、一旦引き揚げようとした。その時、城兵がどっと討って出て太田勢と激しい戦となり、ついに落城したが、図書助外五十三人がこの地で討死したという。

臼井田環境整備委員会

アクセス

臼井城跡/臼井城址公園

住所:〒285-0861 千葉県佐倉市臼井田900

京成電鉄 京成臼井駅より徒歩20分程度

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