渋谷を歩く①~渋谷城址・金王八幡宮

2023年2月11日
渋谷区を歩いてきました。
今回は地名のルーツ、渋谷城があった場所へ向かいます。

金王八幡宮(澁谷城址)

読み方は『こんのうはちまんぐう』です。

御由緒

 当八幡宮は、第七十三代堀河天皇の寛治六年正月十五日(1092)鎮座。
公務天皇の曾孫である公望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗のうち日月二旒をもって秩父妙見山の納め八幡宮と崇め奉った。武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役(1087)の源義家の軍に三百余騎を従え一番で三向し、仙北金澤の柵を攻略した。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜った。義家はこの勝利は基家を信仰する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請した。

 重家の代となり禁裏の族を退治したことにより堀河天皇より澁谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とした。澁谷氏は代々当八幡宮を士族の鎮守と崇めた。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城の「砦の石」が保存されている。

 当八幡宮は、「八幡宮」又は「澁谷八幡宮」と称していたが、金王丸の名声により、後に「金王八幡宮」と称されるようになった。
澁谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を領したので、当八幡宮は鎌倉街道(現・八幡通)大山道(現・青山通、道玄坂)を中心とする青山・渋谷の総鎮守として現在も数多の崇敬をあつめている。

拝受資料より

境内の写真

参道

社殿

御社殿

 現在の社殿は、徳川二代将軍秀忠の世、慶長十七年(1612)に青山忠俊と春日局により造営された。

 竹千代(後の家光)九歳、弟国松(後の忠長)七歳の頃、三代将軍は国松であろうとの風説が行われた。竹千代の乳母春日局と守役青山伯耆守忠俊はこれを憂い、伯耆守は氏神と信仰していた当八幡宮に熱心に祈願をこめ、春日局もまた護摩料金八十両を奉納している。その後、家光の具足初めの儀が行われることとなり、これ神明の加護と伯耆守は数多の材木を、春日局は金百両を寄進し社殿を造営した。

 この社殿は、権現造りで江戸初期の様式を現在にとどめ、都内でも貴重な建築の一つに数えられる。近世の神社建築としてはあっさりした姿で、豪華ではあるが極めて優しげな彫刻が各所に施されている。特に拝殿正面左右の窓のような狭間には漠と虎が彫られ、このような装飾はたいへん珍しい。獏は世の安寧、虎は正しいまつりごとへの祈りの心が込められている。

拝受資料より

金王桜

澁谷城 砦の石

澁谷城 砦の石

 この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族居館の後で、東に鎌倉街道(現・八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。

 しかし、その館いわゆる澁谷城は大永四年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦い(現・品川区高輪付近)の時、澁谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。

現地案内板より

神楽殿

境内社

御嶽神社
玉造稲荷神社

金王丸御影堂

寶物館

内部の写真
大江山鬼退治之図
旧神社のジオラマ

御朱印

直書きいただきました。
初穂料は500円。

アクセス

金王八幡宮(渋谷城址)

住所:東京都渋谷区渋谷3丁目5−12

各線 渋谷駅より徒歩5分

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