2023年8月11日
台東区谷中・全生庵に行ってきました。
この日は、初代三遊亭圓朝の命日『圓朝忌』です。
全生庵

『ぜんしょうあん』と読みます。
臨済宗の寺院です。
全生庵の由来
全生庵は、明治16年(1883)山岡鐡舟居士が幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、富山国泰寺より越叟禅師を迎えて開山とし建立された寺です。寺名の由来は、明治7年、居士が、鎌倉建長寺の開山蘭渓道隆禅師の自筆の全生庵という額を人から貰い、これを書斎にかけておられたことによります。
居士は、明治13年ご一寺建立を発願し寺域を現在地に選定したところ、計らずもこの地が700年前道隆禅師が鎌倉に向かう途中、漂流し九死に一生を得て全生庵という庵室を立て閑居されていた旧跡であることが分かり、これを奇縁に感じ、明治16年全生庵を寺号とし、そして、自邸よりかつて江戸城の守り本尊であった葵正観世音の霊像を遷してご本尊とされました。
頒布パンフレットより
2022年末、座禅体験に行ってきました。
その時の体験をnoteにまとめてますので、よろしければご覧ください。
幽霊画展

幽霊画
三遊亭円朝(1839~1900)は、ばくまつから明治にかけて落語界の大看板であると共に、「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」などの原作者としても広く知られています。そして、いまなお落語界はもとより歌舞伎をはじめ、演芸界全般に多大な影響を与え続けております。
また、人格面においても全生庵開基・山岡鐡舟の導きにより禅をよく修し、その淵源を極め、京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与され「芸禅一如」の境涯に達した人物です。全生庵に所蔵しております円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈されたものです。
頒布パンフレットより


内部は撮影禁止だったので
頒布パンフレットと団扇の作品を載せておきます。
左の作品は、三遊亭圓朝『髑髏図自画賛』の一部です。
境内の写真
本堂




山岡鐡舟の墓



江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩。字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治二十一年(1888)七月十九日五十三歳で死去した。
山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所に周囲には、鉄門といわれる石坂修造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。
東京都教育委員会
三遊亭圓朝の墓



初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(1839)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長藏)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(1855)十六歳で真打となる。芝居噺で人気を博し『真景累ヶ淵』や『怪談牡丹燈籠』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬静寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余りの枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている明治三十三年(1900)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
東京都教育委員会
命日ということで、落語協会から花束が飾られてました。
ぽん太の墓

ぽん太は三遊亭円朝の弟子。
身寄りがないので、円朝の墓の隣に立てられてそうです。
國事殉難志士墓

聖観音菩薩

山岡鐡舟居士之賛


三遊亭圓朝翁碑


山田良政君碑


御朱印

8月1日~31日まで開催されている『円朝祭』の御朱印を拝受できます。
祈祷料300円
アクセス
住所:〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目4−7
東京メトロ千代田線 千駄木駅徒歩5分
JR・京成線 日暮里駅徒歩10分
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