浦賀を歩く①~開国のまち・浦賀

2022年2月23日
神奈川県横須賀市・浦賀駅周辺を歩いてきました。
浦賀と言えば、ペリー(黒船)来航というイメージの方が多いでしょうか。

筆者は浦賀城を観る目的で訪問。
しかし周辺を歩いたところ、違った一面が浮かび上がってきました。

まずは、浦賀湾の東側『東浦賀』より歩いて参ります。

歴史

 半島の中では比較的早くから発展した地域であり、戦国時代には浦賀城が築城されて後北条氏の水軍の拠点の1つになっていた。徳川家康が関東に入封すると、浦賀城は廃城となり、三浦半島は家康の直轄領となった。

オランダの商船リーフデ号が九州に漂着すると、当時の豊臣政権の実権者であった家康は慶長3年、自領の関東浦賀湊にスペイン商船の招聘を目論み、フランシスコ会宣教師を介し交渉していたが、進展がなく頓挫していた。そこへ慶長5年、ウイリアム・アダムスが来日し、家康は海外事情に詳しい彼をスペイン交渉に携わせるため外交顧問として重用したのである。

浦賀にスペイン商船が入港したのは慶長9年である。それは家康の要望によってアダムスが、関西に停泊していたスペイン商船を浦賀に回航したものである。以後、毎年、浦賀にスペイン商船が入港しているのだから、アダムスの功績は大きいといわねばならない。こうして浦賀は大航海時代マニラ・ガレオン船の航路港の寄港として重要な役割を果たした。

また、浦賀は江戸時代には、江戸入り口に位置することから廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねた。1720年には江戸湾の警備の為に浦賀奉行が置かれ、万が一の事態に備えて砲台(浦賀砲台)も整備された。浦賀は、湾に出入りする船が必ず寄港する要衝となり隆盛を極めた。

(中略)1853年には沖合にマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が来航し(黒船来航)、浦賀奉行が応対に当たった末に近隣の久里浜(現横須賀市。当時は小さな漁村)に上陸することとなった。
このためペリー上陸の記念碑や記念館は久里浜にあるが、一般に来航地は浦賀とされる。その後1860年には咸臨丸が浦賀港より出港して、太平洋を横断した。

wikipediaより

叶神社(東叶神社)

御由緒

裏山を明神山といいますが、それは叶明神社が祀られていることによります。『新編相模国風土記稿』に「拝殿は山下にあり、祭神は応神天皇で、正保元年(1644)九月十九日に西浦賀の本社を勧請(神の分霊を迎えて祀ること)。牛頭天王、船玉明神を合祀。」とあります。

しかし、叶神社の縁起には、養和元年(1181)に京都の高雄山神護寺の僧・文覚が石清水八幡をこの地に勧請し、文治2年(1186)に源頼朝が、源氏再興の願いが叶えられたので、叶明神と改めたとされています。

また、別の伝えによれば、元禄5年(1692)に浦賀村が東と西に分かれたとき、西浦賀村の叶神社を遷して祀り、西の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだともいわれています。

横須賀市ホームページより

境内の写真

拝殿

身代わり弁天

勝海舟断食修行の折 使用の井戸

日西墨比貿易港之碑

御朱印

直書きで初穂料は500円
咸臨丸の御朱印帳がカッコよかったので、ついでに購入しました(1500円)

浦賀城址

※便宜上、恵仁志坂より上部(明神山)を浦賀城址としています。
 東叶神社拝殿の左脇より登ることができます。

歴史

 東叶神社拝殿の左側から始まる200段を越える石段(恵仁志坂・産霊坂)を登りきった山頂の正面にある奥宮は、小さいながら立派な彫刻のある本殿でしたが火災により焼失しました。現在の本殿は、創建八百年を記念して昭和56年(1981)に再建されたものです。

 この明神山は、叶神社が勧請されてからの呼び名であり、小田原北条氏(後北条氏)分国の頃、伊豆下田の領主が三崎城の出城として水軍の砦を築いたので、古くは、下田山とか城山と呼ばれました。

 ここは、戦国時代の弘治2年(1556)三浦半島が房総の里見軍に攻められたため、北条氏康(後北条氏第3代)が築城したらしい浦賀城があった所です。この城は、千葉の里見氏に対する戦略目的(防備)で置かれた三浦半島水軍の根城でした。城として必要である堀について、近年、空堀の存在・構造を説明する調査報告なども出ています。

遺構の写真

『天神山』の名の通り、かなり急勾配です。
山自体は15分もあれば登れますが、体力はかなり使います。
道中には、石垣・空堀と思われる遺構・浦賀ドッグで殉職した方の慰霊塔がありました。

山頂からの写真

いや~、絶景ですね!いい天気で気持ち良かったです。
奥に見えるのは房総半島。

ペリーの艦隊4隻は、2枚目の左側に停泊したそうです。

東叶神社奥宮

勝海舟断食の跡

 万延元年(1860)、日本で初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の館長格・勝海舟は、航海前に、東叶神社の井戸で水垢離みずごりをした後、裏山の山頂で断食をしたと伝えられています。

 過酷な冬の太平洋を初めて航海するにあたり、船玉明神ふなたまみょうじんを祀る叶神社に、航海の安全を切実な思い祈願したと思われます

現地案内板より

アクセス

東叶神社/浦賀城跡

京浜急行線   浦賀駅より徒歩30分程度
浦賀駅よりバス 新町停留所より徒歩10分程度

徳田屋跡

 (前略)浦賀の旅籠の草分けである徳田屋には、多くの武士や文化人が宿泊したことがわかっています。それは旅人自身の日記などから知れることで、徳田屋の宿帳が現存していたならば、その「宿帳」だけで浦賀の文化史を語ることができたのでしょう。
明治の元勲を多く輩出した「松下村塾」の塾頭である吉田松陰は、その日記に、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋の主人からの情報をもとにして、師の佐久間象山らと協議したことを残しています。今回の黒船来航では、2年前の見聞で、日本側の防備の実情を知っているだけに、手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、今後の日本のとるべき方向などを語り、議論百出した様子を記しています。

 このように、歴史の表舞台にも登場する徳田屋ではありましたが、万延元年(1860)の桜田門外の事件に関しては、苦い思い出もあります。井伊大老を殺害した水戸藩士の残党が立ち回るおそれがあるので、どの旅籠でも、奉行所の役人が来て、宿泊人全員の厳重な取り調べを行う手はずになっていました。その日、徳田屋に泊まった房総からの7人の客を「明朝の取り調べが済むまで止めておくように」と指示を受けていたにもかかわらず、理由は明らかではないが、なぜか出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けました。

 当時、徳田屋では番所の「船改め」を受けずに、房総半島へ直行できる船便を持っており、これも徳田屋の特色の一つでした。

横須賀市ホームページより

浦賀の渡し

こちらから浦賀湾をはさんで反対側(西浦賀)へ行けるのですが、欠航中のため一旦浦賀駅に戻ることとなりました。

アクセス

徳田屋跡/浦賀の渡し

京浜急行線   浦賀駅より徒歩20分程度
浦賀駅よりバス 新町停留所より徒歩5分程度

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