浦賀を歩く②~中島三郎助の菩提寺/雷電の相撲興行が行われた地・東林寺

2022年2月23日
神奈川県横須賀市・浦賀駅周辺を歩いてきました。

こちらは中編で、東浦賀を歩いています。
浦賀城への道中に少し寄り道をしてきました。

浦賀山 東林寺

浄土宗の寺院です。
江戸時代末期の浦賀奉行所与力で蝦夷共和国へ参加。
戊辰戦争にて戦死した中島三郎助のお墓があります。

歴史

寺誌によれば、開山は唱阿上人です。

しかし、『新編相模国風土記稿』には、「いにしえは今の寺院を分ち唱へて二ケ寺なりしを大永三年(1523)僧良道合わせ一寺とす、故に此僧を開山と称す」とあります。

本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されています。実は、この阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになります。

更にこの脇に、もう一体阿弥陀仏が安置されています。この仏像は「善光寺式阿弥陀仏」といわれ、長野県善光寺の本尊を模して造られたもので、室町時代初期の作風をよく顕しているということで、市指定の文化財になっています。本尊の阿弥陀仏と善光寺式の阿弥陀仏を見比べると、阿弥陀仏の作風の変遷が見られます。

(中略)この境内に入ってすぐ、本堂へ登る石段の右脇に石の鳥居があります。
これは、州崎町の町内稲荷である三浦稲荷の鳥居です。
この鳥居のすぐ下に「南無阿弥陀仏」と太く刻まれた石塔があります。

これを建てたのは、浦賀の遊廓(当時は洗濯屋と言った)の主人で、後に家屋敷や財産すべてを投げ出し、抱えていた遊女を解放し、自らは出家する江戸屋半五郎です。
そして、この名号を書いたのは、目黒の祐天寺の6世、祐全和尚です。

この石塔や三浦稲荷の前は、さほど広い場所ではありませんが、『浦賀事跡考』によれば、文化6年(1809)6月に雷電為右衛門が来て相撲の興行が行われたことが記されています。

横須賀市ホームページより

境内の写真

中島三郎助/恒太郎/英次郎/中島家の墓

中島三郎助は、ペリー率いる黒船へ最初に乗船した日本人です。
黒船との関りがその後の人生を大きく左右しました。

幕末の文政4年(1821年)に浦賀奉行所の与力・中島清司の次男として生まれた三郎助は、14歳で奉行所に出仕します。その後、アメリカ船モリソン号砲撃事件(天保8年(1837年))、アメリカ人ビッドルの来航(弘化3年(1846年))、さらに、嘉永6年(1853年)のペリー来航を目の当たりにして、日本でも大型軍艦を持つことの必要性を説きました。

そして、軍艦造船にあたり委員の一人として活躍、翌年の5月には着工以来わずか8カ月という短期間で、日本人の手による最初の洋式軍艦「鳳凰丸」の誕生となります。この後、三郎助は長崎海軍伝習所の第1回生として派遣され、勝海舟や榎本武揚らとともに造船・操船技術を習得し、近代造船学の指導的な立場になりました。

一方、三郎助は父の教育を受け、幼少の頃から和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道にも才能を発揮しました。ことに俳諧においては俳人・木鶏の名をほしいままにし、江戸にまでその名が知られていました。福沢諭吉が残した『福翁自伝』にも浦賀の立派な武士として書き記されています。

慶応4年(1868年)に明治新政府が樹立されると、榎本武揚らとともに函館に向かい、旧幕府勢力を中心とした政府の樹立を目指します。しかし、翌年の5月に二人の息子恒太郎、英次郎とともに新政府軍の砲弾に倒れ、49年の生涯を閉じました。

横須賀市ホームページより

三浦稲荷社

社殿の彫刻が素晴らしいです。
現在の境内は少しこじんまりとしていますが、ここで雷電の相撲興行が行われたと想像すると、ちょっと興奮しますね。

御朱印

直書き頂きました。
奉納料300円です。

アクセス

浦賀山 東林寺

京浜急行線   浦賀駅より徒歩20分程度
浦賀駅よりバス 新町停留所より徒歩5分程度

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