浦賀を歩く③~勝海舟と福沢諭吉と咸臨丸

2022年2月23日
神奈川県横須賀市・浦賀駅周辺を歩いてきました。
後編は、西浦賀を歩いていきます。

まとめ

鎌倉時代から明治にかけて、時代の転換点になっていた浦賀。
咸臨丸がここから出航したこともあり、勝海舟とも関係が深い土地だったことを実感。

また、中島三郎助に纏わる資料が多く残っており、亡くなってからも浦賀船渠設立の発端になったことなどを見ても、地元の方にとても愛されていたんだなあと感じました。

戦国時代と幕末。
どちらの時代が好きな方でも楽しめるので、是非行ってみてはいかがでしょうか。

叶神社(西叶神社)

御由緒

東浦賀にも叶神社があり、区別のため、西叶神社と呼んでいます。

縁起によれば、「平家物語」に登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓いました。養和元年(1181)この願いが叶えられそうになり、神社を建てる場所を探した結果、頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である西浦賀の地が選ばれ、ここに石清水八幡宮を勧請しました。

文治2年(1186)壇の浦の戦いで平家が破れ、源氏の世になると、大きな願いが叶ったことにより「叶明神」の称号が与えられた、とあります。文覚上人(1139~1203)は、もと鳥羽天皇の皇女に仕える北面の武士でしたが、出家し、諸国の霊山で修行し、その効験をもって知られていました。

後白河法王に対する荘園寄進の強要により伊豆に流され、平氏嫌いでもあった上人はそこで頼朝と出会い、源氏の挙兵を勧めたといわれます。

現在の社殿は天保13年(1842)に再建されたものです。

社殿をとりまくたくさんの彫刻は、後藤利兵衛という安房国(千葉県)の彫刻師の若い頃の作品で、後藤はこれらの仕事が認められ、その後幕府の彫刻師として雇われました。

拝殿の格天井の彫刻は花鳥ですが、この中には当時の日本にはまだ渡来していないとされる花や鳥も彫られており、後藤はどこでこれらの知識を得たのでしょうか。

また、神殿の棟柱を担ぐ力士像なども他には類を見ない優れた作品であり、これらの彫刻は横須賀市の市民文化資産に指定されています。

(中略)また、この場所に明治4年、西岸学舎が置かれ、東浦賀の乗誓寺に置かれた東岸学舎と明治31年に合併して浦賀小学校が誕生するまで存続しました。

明治14年、明治天皇が観音崎砲台の視察の際、この教室が休憩所として使用されました。

横須賀市ホームページより

境内の写真

拝殿/本殿

境内社

明治天皇駐輦之跡/奉納・碇

ええじゃないか

御朱印

こちらは書置きでした。
初穂料は500円。

アクセス

西叶神社

京急浦賀駅から久里浜駅行バス「紺屋町」バス停下車徒歩1分

愛宕山公園(浦賀園)

 明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公演で、「浦賀園」と呼ばれていました。

 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。

 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・昌子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。

現地案内板より

山道

とにかく道中が険しいです。
この日は対岸の明神山にも登りましたので、さすがに膝が笑いました(笑)

咸臨丸出航の碑

乗組員一覧は下記URLにてご確認ください。
咸臨丸にジョン万次郎(中浜万次郎)が乗っていたことは有名ですが、福沢諭吉が乗っていた事ことに驚きました。
http://kanrin-maru.org/kanrin_material/1860_crew/crew_list_for_usa.html

与謝野夫妻文学の碑

碑文は下記のとおり。

黒船を怖れし世などなきごとし
浦賀に見るはすべて黒船 寛(鉄幹)

春寒し造船所こそ悲しけれ
浦賀の町に黒き鞘懸く 晶子

中島三郎助招魂碑

中島三郎助の生涯については、中編をご参照ください。

アクセス

愛宕山公園

京急浦賀駅から久里浜行きバス「紺屋町」下車徒歩10分

郷土資料館(浦賀文化センター)

・江戸時代の浦賀奉行所
・幕末の海防と造船(特に鳳凰丸と咸臨丸の模型は圧巻!)
・中島三郎助の生涯

他、貴重な資料が数多く展示されていました。
規模は小さいですが、立ち寄る価値は多いにあると思います。
なんと入場は無料!ありがたいですね~

場内は撮影禁止だったため、外観のみ載せておきます。

アクセス

郷土資料館(浦賀文化センター)

京浜急行浦賀駅 徒歩10分

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