横浜を歩く④~小机城代笠原氏の菩提寺・雲松院

2023年5月1日
引き続き横浜市港北区の小机駅周辺を歩いています。

今回は、小机城代~徳川家の旗本になった笠原氏の菩提寺へ伺います。

臥龍山 雲松院

歴史・笠原氏について

 臥龍山雲松院は曹洞宗の寺で、小机城(史跡指定)の城主であった小田原北条家の家老笠原越前守信為が主君北条早雲と亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したものである。寺伝の「雲松院起立記」によると建立の年代は「天文年中」とあるが実際は寺伝より若干古く早雲公七回忌と信隆公の三十回忌に当る大永五年(一五二五)いまから四百五十年前ごろと推定される。

 当時、伊豆に興った北条早雲は着々と相模、武蔵の経略に力を注ぎ、小田原城や三浦半島を手に入れてゆるぎない地盤をこの神奈川県一帯に築きあげた。北条二代氏綱公が英君で父早雲の遺志を継ぎ、関東一帯の平定に成功して北条百年の基礎を固めるのであるが、雲松院開基の越前守信為は、主にこの二代氏綱の時代に活躍した大将であった。

雲松院ホームページより

【小田原北条氏と小机城代笠原氏・小机衆】
・・その優れた資質と貢献の足跡をたどる・・

 伊勢宗瑞(北条早雲 1456~1519)は1945年に小田原城を戦い取り、関東への足掛かりをつけた。
 戦国大名・小田原北条氏の初代伊勢宗瑞(早雲)を祖として、北条二代目氏綱、三代目氏康、四代目氏政、五代目氏直に渡る統治が繰り広げられた。

 笠原信為は、伊勢宗瑞(早雲)、北条氏綱、北条氏康の三代にわたって使えた宿老(高官)で、小田原北条氏の五家老を務めた。

 「笠原一族」は小机城の城代として、小田原北条氏の方針に基づき、空堀・土塁を含めた北条流の城への改造、寺社の修復、租税の軽減(年貢率を四公六民へ)・田畑の所有権の認可などを行った。笠原城代の約66年間の統括期間は、戦国時代の真っただ中でありながら、初代城代の信為、二代目城代の康勝、三代目城代の照重、四代目城代の重政に受け継がれて、小机衆を率いて村民を大事にし、安定した地域の統括を行った。

 豊臣秀吉の小田原城攻めの際、笠原氏や小机衆は秀吉に対して、降伏と「御朱印状」の発券を願い出、一般村民が秀吉勢の兵士らに被害を受けることがないように請願した。

 小田原北条家滅亡後、徳川家康の直轄領となった。小机城の第四代目城代の笠原重政は、これまでの業績が認められ、家康に仕える旗本として、武蔵国都筑郡台村に領地を与えられ、二百石の処遇を受けた。

小机城のあるまちを愛する会+よこはま縁結び講中 『小机城の魅力<解説版>』より

境内の写真

通用門

本堂

横浜市指定有形文化財(建造物)
雲松院本堂及び山門

時代
本堂:宝暦三年(1753)
山門:安政五年(1858)

 本堂は、正面九間、側面七間、方丈形式の堂々たる道で、内部から八室からなり、来迎柱二本と、仏間と室中境の柱二本を除くすべての柱は角柱で、住居風のしつらえとなっています。屋根は、昭和三十年代に茅葺を改めたものです。山門は、本茅葺の四脚門で、昭和三十年代には茅葺から改められましたが、屋根以外はほとんど改変が認められません。本堂は、関東大震災で大きな被害を受け、改築された部分はありますが、全体としては旧状をよく留めており、建造年代も明確で、緑に囲まれた優れた環境と相まった、市内有数の貴重な遺構です。

現地案内板より

山門

笠原家の墓所

横浜市地域史跡
旗本笠原家の墓所

 笠原家は、初め小田原北条家に仕えましたが、小田原北条家滅亡後は、徳川家に仕え、信為の孫照重の子、重政が天正十九年(1591)に武蔵国都筑郡台村(現、緑区台村町)に二百石を賜りました。

 現在、墓所には、元和九年(1623)在銘の宝篋印塔一基をはじめ、笠付角柱塔、石仏など合計十七基の墓を数えることができますが、それらは重政、信重、為次ら笠原一族のものです。

現地案内板より

その他の写真

寺紋が三ツ鱗(小田原北条家)ではなく、
三つ葉葵(徳川家)になっているのが興味深いですね。

アクセス

見出し

住所:〒222-0036 神奈川県横浜市港北区小机町1451

JR横浜線 小机駅より徒歩3分

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