寄居町を歩く①~天然の要害・鉢形城

2021年11月28日
埼玉県大里郡寄居町を歩いてきました。
今回の目的地は鉢形城公園(鉢形城跡地)です。

鉢形城公園

鉢形城址は国指定の史跡です。
『日本の名城100(No.18)』にも選ばれてます。

概要

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。
この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。

 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。
後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。
1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。

 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定好(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。

寄居町公式ホームページより

フィールドマップ

出典:寄居町ホームページ

笹曲輪

 笹の葉のように小さい曲輪という意味で、本曲輪の外側に設けられ、本曲輪が直接外側に露呈することを防ぐ役割を果たしています。1/250の復元地形模型も設置されています。

搦め手

搦め手とは、城の裏手・裏門を指す言葉です。
そのまま道路になっているところが興味深いですね。
手前に『搦手橋』という橋があったのですが、撮り忘れてしまいました…

本曲輪・伝御殿曲輪

鉢形城跡の本曲輪は、荒川右岸の崖上に設けられ、伝御殿曲輪と伝御殿下曲輪に分かれています。伝御殿曲輪には、城主の館があったと伝えられています。

城山稲荷神社

二の丸跡に鎮座。
現在は、稲乃比売神社の飛地境内社となっているそうです。

二の曲輪

二の曲輪の土塁は、高さが不明であることから、位置を示すことを目的に低く復元されています。
また、堀は遺構面の保護と安全対策から堀底を高くしています。

三の曲輪

復元された『四脚門』・『石積土塁』
石組排水溝跡、休憩所などがあります。

馬出

『馬出』とは、城の出入り口である虎口(こぐち)を守る小さな曲輪を意味し、城兵の出入りを安全に行う施設です。

鉢形城内には6つの馬出があったと推定されています。

諏訪神社

三の曲輪外郭に位置しています。

天正18年(1590)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣が落ちていき、人々も少なくなりました。しかし、城下の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営しました。

外曲輪・土塁

本曲輪、二の曲輪、三の曲輪と深沢川を挟んで対岸に細長い外曲輪が築かれています。城跡で最も長い土塁が現存し、その長さは約200mにおよびます。

アクセス

鉢形城公園

JR八高線・東武東上線 寄居駅徒歩20分

高根山藤源院 正龍寺

曹洞宗の寺院です。
藤田康邦夫妻と、養子になった北条氏邦夫妻のお墓があります。

歴史

12世紀中頃に藤田氏初代・猪俣政行が高嶺山に箱根権現を祀ったのが始まりとされる。1187年、寺院近くにあった花園城下の湖に青龍が棲み着いたとする逸話に基づき、臨済宗の僧實翁和尚が1348年に青龍寺と号した

藤田氏十五代の康邦が開基となって、1532年に乾翁瑞元和尚の教化のもとに創建され、後に康邦の養子である北条氏邦の帰依を得て大きく栄えた。

氏邦が北関東支配の拠点としていた鉢形城は豊臣秀吉による小田原征伐の標的となり、前田利家・上杉景勝らの北国軍(3万以上)との一ヶ月に及ぶ籠城戦を繰り広げたのち、正龍寺において開城の合意が交わされた。

青龍寺は昌龍寺と改号された後、徳川家康入幕後の1591年に正龍寺に改号された。

wikipediaより

境内の写真

藤田康邦夫妻・北条氏邦夫妻のお墓

 藤田氏邦は、正龍寺の西の山上に築いた花園城及び周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主の藤田氏15代当主と伝えられている。
 藤田氏は、武蔵七党と総称される中小規模の武士団の一つである猪俣党の系譜を引いており、室町時代には関東管領を世襲した上杉氏の一族山内上杉家の重臣として活躍した。
 康邦は、北条早雲を祖とする後北条家の北関東支配が強まる中で、北条氏康の三男氏邦を迎え、娘の大福御前を妻あわせた。

 北条氏邦は、藤田氏の名跡を継いで天神山に入ったが、永禄年間に鉢形城を改修して居城とし、後北条家の北関東経営の拠点とした。天正18年(1590)豊臣秀吉に降伏した後は、前田利家に預けられ能登国七尾で晩年を過ごした。没年は慶長二年(1597)と伝えられている。

境内案内板より

御朱印

感染症対策で、現在は書置きのみの配布です。
祈祷料は300円でした。

アクセス

正龍寺

JR八高線・東武東上線 寄居駅徒歩15分

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